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第五十五話 落日の序曲

「余がいつ、おんしにそんなことを頼んだ! 徳川の恩顧を忘れた不忠者どもを煽り、余が愛した東洋を無惨に殺した下手人を身内に囲い込み、挙句の果てに主君を傀儡にして『土佐を天下に』だと? 笑わせるな。おんしが京で血の雨を降らせ、柳川左門などという空虚な名に酔いしれている間、余がどれほどの屈辱を舐めたか……その狭い視野で考えたこともなかろう。おんしの忠義は、余を縛り付けるための鎖に過ぎぬ!」

容堂の瞳に宿るのは、瑞山が信じて疑わなかった「主従の絆」ではなく、烈烈たる、そして救いようのない「憎悪」であった。

(……憎まれて、おった。この殿に、わしは、ずっと憎まれて、おったのか)

その一言一言が、瑞山の胸の奥深くに刻み込まれていた無邪気な信頼を、根こそぎ引き剥がしていった。これまで一度たりとも、その可能性を想像したことすらなかった。それだけに、その衝撃は、瑞山の魂そのものを、粉々に打ち砕くほどのものであった。

(あの若き将軍様には、殿のような、器の大きなお方こそが、お側で支えねばならぬと……わしは、あれほど強く、信じておったというに)

その理想は、今、瑞山自身の目の前で、無残に打ち砕かれようとしていた。将軍を支えるべき「殿」その人が、他の誰でもない、この瑞山を、これほどまでに憎み、拒絶している。その現実は、瑞山が拝謁の夜に抱いた、あの純粋な忠義の理想を、根底から裏切るものであった。

「……武市。おんしの言う『忠義』は、余にとっては呪いであり、『仇』なのだ。おんしのその肥大した自尊心が、余の愛した土佐を、東洋が守ろうとした法ある土佐を、無惨な人斬りの巣窟に変えたのだ」

「老公様、お言葉ながら……! 私の一心は、一刻たりともあなた様を離れたことはございませぬ! この瑞山、魂を懸けて……!」

「下がれ! 柳川左門などという偽りの名、二度と余の前で名乗るな。その汚らわしい衣を、二度と余の視界に入れるな。おんしの顔を見るだけで、東洋の無念が蘇るわ」

容堂は冷徹に背を向け、それ以上の対話を拒絶した。

瑞山は、激しい衝撃に全身を打ち震わせながら退室するしかなかった。廊下に出た彼の足取りは、先ほどまでの堂々たるものとは打って変わり、魂を抜かれた幽鬼のように力なく、膝は笑い、視界は白く霞んでいた。

屋敷を出て、控えていた宿所へと戻ると、そこで待っていた以蔵が、瑞山の様子に、すぐに異変を感じ取った。

「……先生。やはり、殿は……」

以蔵が、どこか全てを悟ったような、そして耐えがたいほど悲しげな瞳で瑞山を見つめた。

「……いや。以蔵。……わしの真心が、まだ足りぬだけだ。もっと、もっと底の底まで真心を見せれば、殿もいつか、きっと解ってくださる……」

瑞山は、震える手で懐の富子の文に触れようとして、その指を止めた。その指先は、雪の冷たさよりも深く凍てついていた。自らに言い聞かせるその言葉さえ、冬の風にかき消されていく。

主君に拒絶され、唯一の拠り所であった「誠」の行き場を失った瑞山の世界が、音を立てて崩壊し始めていた。江戸の冷たい海風が、二人の志士の背中を、容赦なく突き刺していく。それは「夜明け」への風などではなく、あまりに無惨で、あまりに孤独な「落日」への序曲であった。

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