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第五十四話 将軍家茂

 勅使一行が江戸城に上がり、将軍・徳川家茂への拝謁が叶った日のことである。瑞山は、随員の末席に控えながら、初めて、天下の頂点に立つ人物を、その目で見た。

(これが、将軍家……)

瑞山の胸には、これまで思い描いてきた「将軍」という存在への、畏敬にも似た緊張があった。日ノ本すべての武士の頂点に立つ、絶対の権威。その威厳に、瑞山は、剣術の立ち合いにも似た、張り詰めた気持ちで臨んでいた。

だが、実際に対面した将軍・家茂は、瑞山の想像とは、あまりにもかけ離れた姿であった。まだ、あどけなさの残る、若い顔立ち。その物腰には、これから日本の舵取りを担う者としての重圧に、まだ十分に慣れていないような、頼りなさが滲んでいた。

(……なんと、お若い。それに、なんと、お小さい)

瑞山は、平伏したまま、内心で、激しい動揺を覚えていた。この若さで、これほどの重責を、どうして担えるというのか。幕府という、二百六十年続いた巨大な組織の頂点に、これほど幼さの残る人物が座っているという事実に、瑞山は、言いようのない不安を覚えずにはいられなかった。

(この御方が、この国の頂きにおられる。……幕府は、大丈夫なのだろうか)

その不安は、瑞山の中で、もう一つの想いへと、静かに繋がっていった。

(将軍様には、殿のような、経験も、器量も、そして何より、国を憂う真心をお持ちのお方こそが、お側におらねばならぬ。……我が殿こそ、まさに、そのお方ではないか)

瑞山の脳裏には、江戸で謹慎の身にありながらも、なお、山内家という大藩を支え続けてきた容堂の姿が、鮮やかに浮かんでいた。酒を好み、豪放に振る舞いながらも、その裏で、藩の存続と、徳川への義理という、二つの重責を、誰よりも深く背負ってきた主君。その姿は、瑞山の目には、この若き将軍が最も必要としている「支え」そのものに映った。

(だからこそ……。だからこそ、我が殿のような、経験と分別を兼ね備えたお方が、この若き将軍様を、しっかりとお支えせねばならぬのだ。容堂公こそが、この揺らぐ幕府を陰で支える、真の柱とならねばならぬ)

その思いは、瑞山の中で、容堂への忠義を、さらに一層、強固なものにしていった。若き将軍の頼りなさを目の当たりにしたことで、瑞山は、自分の主君である容堂の存在の重さを、改めて、痛感していたのである。

(殿。あなた様こそが、この国難の世を、真に支えるべきお方なのです。私は、その手足となり、あなた様を、必ずや、天下の柱へと押し上げてみせます)

その決意を、瑞山は、拝謁の場で、静かに新たにしていた。

その夜、宿所に戻った瑞山は、興奮の冷めやらぬまま、久しぶりに富子への手紙をしたためた。

「富。驚くべきことだ。今日、この身は、将軍様に拝謁するという、夢にまで見た栄誉を賜った。あの江戸城の大広間に立った時の心地は、生涯忘れることはあるまい。まさに、夢の中を歩いているような心地であった」

筆を進めながら、瑞山の胸には、この喜びを、一刻も早く富子に伝えたいという、素直な想いが溢れていた。だが、その筆は、やがて、少し違う調子へと変わっていった。

「……富。ただ、正直に申せば、案じておることもある。この拝謁を機に、わしは、これまで以上に忙しくなるやもしれぬ。柳川左門という名の重みは、日を追うごとに、増していくばかりじゃ。おんしの元へ帰る日が、また、遠のいてしまうやもしれぬ。……それだけが、心残りでならぬ」

その一文を書き終えたところで、瑞山は、しばし筆を止めた。将軍拝謁という栄誉と、富子への申し訳なさ。その二つの感情が、瑞山の胸の中で、複雑に絡み合っていた。

(富。おんしを待たせてばかりの、不甲斐ない夫ですまぬ。……じゃが、この栄誉も、いずれ、おんしと分かち合える日が来ると、わしは信じておる)

その願いを込めて、瑞山は、手紙の最後に、いつもより丁寧に、富子の名を書き記した。だが、この時の瑞山には、まだ知る由もなかった。この決意そのものが、当の容堂にとっては、ありがた迷惑な「越権」であり、深い「憎悪」の対象にしかなっていないということを。

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