第五十三話 柳川左門
そんな中、ついに瑞山が描き続けてきた巨大な絵図が、最大の形となって現れた。幕府に攘夷を督促するための勅使として、正使に三条実美、副使に姉小路公知が任じられたのである。土佐藩主・山内豊範にはその警衛が命じられ、実務の一切を土佐勤王党が担うことになった。瑞山は姉小路の雑掌となり、朝廷から「柳川左門」という仮の名を賜った。
勅使一行の使命は、京の御所に留まることでは終わらない。将軍・徳川家茂に直接、攘夷決行を迫るため、はるばる江戸城へと乗り込むことこそが、この勅使随行の真の目的であった。瑞山もまた、その随員として、京から江戸へと下ることになったのである。
「柳川、左門か。もはや半平太でも、瑞山でもないのだな」
瑞山は、下賜された名の重みを感じながら、再び江戸の地を踏んだ。かつて一介の修行者として剣術に明け暮れた道を、今度は朝廷の使者の随員として、土佐の志士たちを従え、堂々と進む。その喜びは、もはや野心という言葉では片付けられない、一つの信仰に近い域に達していた。
(殿は、この報せを聞けば、どれほどお喜びになられるだろうか)
瑞山の頭の中には、すでに、容堂の破顔一笑する姿が、はっきりと思い描かれていた。長年、遠くから仰ぎ見てきた主君に、ようやく、これほどまでの栄誉を持ち帰ることができる。その想像だけで、瑞山の胸は、抑えきれぬ喜びで満たされていた。
品川、鮫洲の土佐藩下屋敷。冬の重く垂れ込めた雲の下、遠くから響く潮騒は、まるで巨大な獣の呻きのように瑞山の耳に届いていた。
朝廷の勅使随員「柳川左門」として、天下の頂点たる将軍家茂にさえ拝謁し、攘夷の勅命を呑ませるという前代未聞の功を挙げた武市半平太。彼は今、これ以上ない高揚感と、張り詰めた礼節をその背に纏い、隠居謹慎中の身である主君・山内容堂の前に平伏していた。
瑞山の胸中には、熱い「誠」が溶岩のように煮えたぎっていた。自分が泥を被り、血を流し、京の政界を奔走したすべては、この瞬間のためにあったのだ。土佐を天下第一の藩に押し上げ、主君を「天子の第一の藩屏」として歴史の表舞台に立たせる。その絵図が、今まさに完成したのだという自負が、彼を震わせていた。
「柳川左門、ただいま戻りました。……老公様、ご覧ください。幕府はついに攘夷の勅命を正式に受諾いたしました。これにて、天下の耳目は我ら土佐に集まり、あなた様こそが、新しき日本を導く真の指導者となられたのです!」
瑞山が、歓喜を抑えきれぬ様子で顔を上げた。だが、その瞳が捉えたのは、期待していた労いの言葉でも、慈愛に満ちた微笑でもなかった。
対座する容堂は、一献の酒さえ口にせず、ただ底知れぬ深淵のような眼差しで瑞山を見据えていた。その手には、瑞山が朝廷から賜った「柳川左門」の名が記された、あの輝かしい官位の書状が、まるでもぎ取られた羽根のように無造作に握られている。
(……殿? どうして、そのようなお顔を)
瑞山は、その瞬間、初めて、小さな違和感を覚えた。だが、その違和感は、あまりに小さく、そして、あまりに信じがたいものであったため、瑞山の頭は、それをすぐには受け止めることができなかった。
「……柳川左門。良い名ではないか、武市」
低く、地を這うような容堂の声が響く。それは凍てつく風のように冷たく、瑞山の高揚を瞬時に削ぎ落とした。
「一介の郷士が、朝廷の虎の威を借り、将軍に拝謁し、ついには主君を差し置いて国政を動かす。……おんし、自分が何者か忘れたのではないか? 己がいつから、この山内容堂を導き、指図する『師』になったつもりだ。あぁ?」
「そ、それは……すべては山内家のため。殿を天子様のもと、天下の雄藩として不動の地位に置くためでございます! 私の身に余る栄誉も、すべては殿の威光を天下に知らしめるための、使い捨ての道具に過ぎませぬ!」
「黙れッ!」
容堂が手にした書状を、乾いた、しかし暴力的な音を立てて畳に叩きつけた。




