第五十二話 道具の空虚
三条木屋町の寓居に戻った瑞山を待っていたのは、暗がりに座り込み、自らの刀の鯉口をカチカチと鳴らす、飢えた狼のような以蔵の気配であった。
「……先生。次の『仕事』は、誰ながですか」
以蔵の、純粋すぎるゆえに不気味な問いかけが、瑞山の胸の内に、言葉にできぬ痛みを残していった。瑞山は、以蔵から目を逸らすように筆を執った。
「以蔵。……近衛様より、直々に、天誅を慎めとのお達しがあった。もう、これ以上、血を流すことは許されぬのだ」
「……はい。承知いたしました」
以蔵は、素直に頷いた。だが、その返事とは裏腹に、以蔵の瞳からは、何かが抜け落ちたような、虚ろな色が消えなかった。
(以蔵……済まぬ。おんしを人間に繋ぎ止めていた鎖は、今、わし自らが断ち切ってしまったのかもしれぬ)
瑞山は、その虚ろな瞳を見つめながら、自分がこれまで以蔵に何を与え、何を奪ってきたのかを、改めて突きつけられているような気がした。人を斬ることでしか、自分の存在意義を見出せなくなっていた以蔵にとって、この「命の禁止」は、単なる仕事の停止以上の、深い喪失であったのかもしれない。
(わしが、あやつを、こんな風にしてしまったのだ。今更、刀を鞘に収めよと命じたところで、あやつの心にまで、それが届くのだろうか)
その自責の念を抱えながらも、瑞山は、これ以上の言葉を、以蔵にかけることができなかった。
しかし、瑞山がその手を止めても、彼が一度放った「恐怖」という名の魔物は、もはや主人の声を聞かなかった。暗殺は瑞山の手を離れたが、京の街には「瑞山」の名を騙る偽りの正義が、毒霧のように独り歩きを始める。瑞山が動かさぬはずの刃は、京の至る所で勝手に舞い、血を吸い続けた。
「土佐勤王党・武市瑞山の志を継ぐ」と称する浪士たちが、勝手に商家を脅して軍資金を強請り、気に食わぬ役人を斬り、その無残な死体に「天誅」の札を立てる。瑞山が灯した火は、すでに彼の制御を離れ、京の街を焼き尽くさんとする業火へと変わっていた。
その報せを聞くたび、瑞山は、深い無力感に襲われた。
(わしが命じたわけではない。……だが、わしの名を騙って、こうも容易く人が斬られていく。もはや、わしの言葉一つで、この流れを止めることはできぬのか)
自分が生み出した「恐怖」という炎は、もはや瑞山自身の手にも負えない、独立した意志を持つ怪物へと成長していた。その事実に、瑞山は、これまでにない種類の、底知れぬ恐怖を覚えていたのである。
瑞山の脳裏には、常に江戸におられる容堂公の影があった。自分が京で権勢を振るえば振るうほど、江戸にいる主君の立場は危うくなる。徳川への義理を重んじ、秩序を尊ぶ容堂にとって、朝廷を背に負い、幕府を否定する瑞山の行動は、もはや忠義ではなく、山内家を根底から滅ぼす「逆賊の所業」にしか見えていなかった。




