第五十一話 鞘に収めよ
文久二年、秋。御所の奥深く、常盤木の緑が濡れたように重く沈む一角。関白・近衛忠煕は、瑞山を呼び出すと、扇を膝に置き、微動だにせず彼を見据えていた。御所の静寂は、市井のそれとは違い、幾百年もの歴史が澱み、積み重なった、逃げ場のない「重圧」そのものであった。
「武市。お主の志は、この忠煕、十分に承知しておる」
関白の声は、さざ波一つ立たぬ湖面のように静かであったが、その底には武士を寄せ付けぬ冷徹な響きがあった。瑞山は、柳川左門としての矜持を胸に秘めつつも、一介の土佐郷士に戻ったかのように、深く、深く畳に額を寄せた。
「もったいなきお言葉にございます」
「……だがな。聞きなさい」
近衛は、手にしていた扇で、瑞山の目の前の畳を軽く叩いた。その乾いた音が、静まり返った書院に鋭く刺さる。
「洛中をこれ以上の血で汚すことは、もはや許されぬ。天誅、斬奸……。お主らが掲げる正義の裏で、鴨川の流れが赤く染まり、夜な夜な河原に首が晒される。天子様がおられるこの聖域が、獣の屠り場と化しておる。これ以上の不浄は、朝廷の権威を、ひいてはお主らが守ろうとする天子様の御心を、最も深く傷つけるものと心得よ」
「……しかし、関白様。奸賊どもを掃討せねば、真の攘夷は……。彼らは幕府に阿ね、国を売る者たちでございます!」
瑞山が必死に食い下がろうとした瞬間、近衛の眼光がわずかに鋭さを増した。それは、刀を抜くよりも恐ろしい、公卿としての「底知れぬ深淵」であった。
「言葉を慎みなさい、武市。お主は今や『朝廷の周旋役』。暴力で世を動かすは、野蛮な武夫のすること。お主が真に主君・容堂の顔を立て、朝廷の信を得たいと願うならば、その抜き身の刀を鞘に収めよ。……これ以降、天誅の指揮は厳に慎め。これは、私一人の言葉ではない。御上の、静かなる『お怒り』であると思え」
瑞山の背筋を、冷たい汗が伝い落ちた。朝廷の権威。それこそが、自分が土佐勤王党を率い、遠く江戸にいる容堂公に「武市、ようやった」と言わしめるための、唯一にして最強の武器であった。その武器の持ち主から、刃を折れと命じられたのだ。
「……承知いたしました。関白様の仰せ、重く、重く受け止めさせていただきます。これよりは、言葉と政をもって、天子様にお仕えいたします」
瑞山は、絞り出すような声で答え、さらに深く頭を下げた。畳の感触が、今はひどく冷たく感じられた。
(正直に言えば――ほっとしている自分がいる)
御所を出た瑞山の目の前には、秋の夕闇が重く迫っていた。瑞山は、門の前で自分の指先をじっと見つめた。暗殺という「近道」を断たれた。これからは、老獪な公卿や、利に敏い幕府の役人たちを相手に、言葉の刃だけで渡り合わねばならない。
(……わしが望んだのは、このような形の『静寂』ではなかったはずだ)
そう自分に言い聞かせながらも、瑞山の胸の奥には、誰にも認められぬ小さな安堵が、確かに芽生えていた。もう、以蔵に「斬れ」と告げずに済む。もう、あの温かい血の匂いを、間接的にであれ、背負わずに済む。




