第五十話 次は、わしか
その夜、先斗町の裏通り。
「誰だ! 待て、わしは公儀の……っ」
悲鳴は、抜刀の音に無惨にかき消された。以蔵は、逃げ惑う目明かしの背後から肉薄し、その首筋に容赦なく刃を叩き込んだ。
「おんしらが、先生を困らせるがぜよ。先生が、泣いちゅうがぜよ」
以蔵の口から漏れるのは、もはや言葉ですらない。狂信的な愛からくる、身勝手な憐憫であった。一太刀で絶命しなかった男の髪を掴み、泥水の中に顔を押し付ける。窒息し、もがく男の背中に、以蔵は何度も、何度も、狂ったように刀を突き立てた。
(……ああ、温かい。先生が喜んでくれる温かさじゃ)
返り血を全身に浴び、以蔵は恍惚とした表情を浮かべた。人としての理を捨てた「人斬り以蔵」という怪物は、こうして瑞山の「言葉」という名の毒によって、一晩ごとに完成されていった。
夜明け前。寓居に戻った以蔵の足跡は、廊下に生々しい血の文様を描いた。
「……先生、掃除は終わりました。もう、羽虫の声は聞こえませんぜ」
以蔵は、瑞山の足元に力なく崩れ落ちた。返り血が、瑞山の端正な袴に染みを作っていく。
瑞山はその汚れを忌むことなく、血塗れの以蔵の頭を、愛おしそうに撫でた。
「……ようやったな、以蔵。おんしが汚れれば汚れるほど、土佐の空は晴れ渡る。殿もきっと、この静寂を喜ばれる」
だが、その優しい手つきの裏で、瑞山の心は、静かに、しかし激しく震えていた。
(この刃は、いつまで、他人にばかり向けられるのだろうか。……もし、わしが、いつか誰かの「不浄」と呼ばれる日が来たなら。以蔵は、この同じ手で、わしを斬るのだろうか)
その想像は、瑞山にとって、決して荒唐無稽なものではなかった。自分がこれほどまでに容易く、人を「不浄」だと断じ、その死を命じてこられたのだ。同じ理屈で、いつか自分自身が、誰かに、同じように断じられる日が来ないとは、限らない。
(わしは今、以蔵という、剥き身の刃を、己のすぐ側に置いておる。もし、あやつの心が、少しでも狂えば……わしの命など、一瞬で刈り取られるだろう)
その恐怖に、瑞山の背筋は、幾度となく、冷たく粟立った。以蔵の寝顔を、ふと見つめる夜もあった。あれほど穏やかに眠る若者が、目覚めれば、また誰かの命を刈り取る刃となる。その落差に、瑞山は、以蔵を可愛がる心と、以蔵を恐れる心の、両方を、同時に抱え続けていた。
(あやつが、もし、わしのことも「不浄」だと、誰かに囁かれたなら。……あやつは、迷わず、わしを斬るのだろうか。それとも、迷うてくれるだろうか)
その答えを、瑞山は、確かめる勇気を持てなかった。ただ、その問いだけが、夜ごと、瑞山の心を、静かに苛み続けていたのである。
(……富。わしは、もう自分を偽ることはできぬ)
その二つの狭間で、瑞山の精神は美しく、そして無残に壊れ始めていた。彼は知っていた。この天誅という名の凶行が、いつか自分自身の首を絞める鎖になることを。それでも、彼は自らの手を血で汚す一線だけは、決して越えようとしなかった。その一線を守ることこそが、瑞山にとって、己が「人斬り」ではなく「志士」であり続けるための、最後のよすがであったのかもしれない。
だが、主君・容堂に「土佐に武市あり」と認めさせたいという狂おしいほどの渇望が、彼をさらなる血の深淵へと突き動かしていた。
「以蔵……次は、誰の不浄を拭わねばならぬかな」
瑞山のその静かな問いかけに、以蔵は地獄の底から響くような歓喜の声で答えた。京都の夜は、降り止まぬ霧雨とともに、二人の志士を破滅へと誘う甘美な死の香りに満ちていた。




