第六話 武市先生
道場を開いたその年、半平太は師・麻田直養よりついに皆伝を伝授される。一介の郷士が、剣の道において頂点を極めた瞬間であった。
新町の道場には、噂を聞きつけた若者たちが次々と集まり始めた。この頃から、周囲は彼を「若旦那」ではなく、敬意を込めて「武市先生」と呼ぶようになった。
(先生、か……。柄でもないのう)
半平太は、その呼び名を聞くたびに、こそばゆい思いをした。剣一本で、ここまで来た。だが、それでもなお、上士の屋敷の前を通るときには、体が勝手に頭を垂れる。「先生」と呼ばれる自分と、泥に膝をつく自分。そのふたつが、まだ一つに重ならない。
門弟たちは、半平太の一挙手一投足を、まるで神仏でも仰ぐような目で見つめている。稽古の合間、若い門弟の一人が、思い切ったように尋ねてきたことがあった。
「先生は、いつも冷静でいらっしゃいますが……怒ることはございませぬのか」
半平太は、竹刀を握ったまま、しばし考え込んだ。
(怒る、か。……本当は、しょっちゅう腹を立てておるのだがな)
だが、それを正直に言うわけにもいかず、半平太はただ、重々しく「怒りは、剣を鈍らせる」とだけ答えた。門弟は感じ入ったように頷いていたが、半平太自身は、内心で小さく苦笑していた。
(本当のことを言えば、わしは、この澄まし顔を保つだけで、日々くたびれておるのだがな)
道場での凛烈な空気から解き放たれ、夜の私宅に戻れば、そこには相変わらず「義太夫」に苦戦する半平太の姿があった。
「……そもそも、平家は……っ、ぬ、ぬぬう……!」
一段と熱の入った、しかし相変わらず節の迷子になった唸り声。富子は、壁越しに聞こえるその「武市先生」の不器用な情熱に、そっと笑みをこぼす。
「お見事な皆伝にございました、半平太様。……今夜の『義太夫』も、一段と力強ゅうございますこと」
「……富。おんし、やはり聞こえておったのか」
真っ赤になって絶句する半平太。数百人を眼光ひとつで平伏させる剣の達人が、たった一言で、こうもあっさり形無しになる。それを知っているのは、この世で富子ただ一人であった。
「富。頼むから、門弟たちには内緒にしてくれよ」
「さあ、どうしましょう。私も、時折、口が滑るやもしれませぬ」
「……富」
いたずらっぽく笑う富子に、半平太は苦い顔をしてみせたが、その口元は、隠しきれずに緩んでいた。
富子は、くすくすと笑いながら、思いついたように付け加えた。
「半平太様。剣術で皆伝をお授かりになったのですから……その義太夫の方も、いつか、免許皆伝を目指してくださいませね」
「……なんじゃと」
「毎晩、あれほど熱心にお稽古なさっているのです。剣と同じだけ精進なされば、いつかきっと、立派な『節』を身につけられましょう」
半平太は、しばし言葉を失った。それから、観念したように、深く息を吐いた。
「……富。おんし、本気で言うておるのか、からこうておるのか、いまだによう分からぬ」
「さあ、どちらでございましょう」
富子は、悪戯っぽく目を細めるだけで、答えなかった。半平太は、その笑顔を見つめながら、内心で密かに思った。
(この調子では、義太夫の皆伝より先に、わしの方が音を上げそうだな)




