第四十八話 わしのものだ
深夜、木屋町の細い路地裏で、獣の唸りのような呼気が響いた。
「……だ、誰だ! 離せ、離してくれ!」
本間精一郎の悲鳴が、凍てつく夜気に突き刺さる。だが、以蔵は答えない。闇の中から伸びた鋼の腕が、標的の胸ぐらを掴み、容赦なく石壁に叩きつけた。
「おんしが、先生の邪魔をするがぜよ」
「何……? 誰だ、貴様は……っ!」
問答は無用であった。以蔵が刀を抜く。抜き放たれた刃が月光を弾き、銀色の弧を描く。鈍い肉の断絶音。
「ぎ、あ……が……っ」
喉笛を掻き切られた本間の口から、言葉の代わりに熱い鮮血が噴き出した。以蔵はその返り血を顔に浴びながら、さらに何度も刀を突き立てた。肉を断ち、骨を砕く感触が拳に伝わるたび、以蔵の脳裏には瑞山の穏やかな笑顔が浮かぶ。
(これで、先生の道が綺麗になる……。先生が、喜んでくれる)
以蔵は、息絶えた男の死体を泥の中に蹴り飛ばすと、血塗れの刀を無造作に懐紙で拭い、再び闇へと溶け込んでいった。
寓居に戻った以蔵の姿は、凄惨を極めていた。羽織はどす黒い血を吸って重く垂れ下がり、剥き出しになった頬には、いまだ乾かぬ返り血が、まるで呪いのアザのようにこびりついている。
「……先生、終わりましたぜ。あの不浄、掃き溜めに捨ててきました」
以蔵は、血のついたままの手で瑞山の膝に縋り付いた。その姿は、手柄を自慢する無垢な子供のようでもあり、地獄の業火に焼かれる亡者のようでもあった。
半平太は一瞬、眩暈を覚えた。己の「言葉」が、これほどまでに生々しい肉の塊と血の海を生み出したという事実に。
(わしは、この手で何ひとつ斬ってはおらぬ。それなのに、この血は……わしのものだ)
(一刻も早く、これを終わらせたかっただけなのだ。富の元へ、早く帰りたかっただけなのだ。……それが、なぜ、こんな結末を招くことになったのか)
その自問に、半平太は、答えを出すことができなかった。焦りから選んだ、たった一言の「不浄」という言葉が、これほどまでに凄惨な結果を招くとは、半平太自身、正確には見通せていなかったのである。
(……富、見ないでくれ。わしはもう、おんしの知る半平太ではないのかもしれぬ)
「あぁ……ようやった、以蔵。おんしのおかげで、また一歩、殿の歩まれる道が清まった」
半平太は、血に濡れた以蔵の肩を、優しく、そして冷酷に抱き寄せた。外では、また冷たい霧雨が降り始めている。
「天誅」の嵐が吹き荒れるほどに、武市半平太という男の権威は京の闇で肥大していった。だが、その足元には、斬られた者たちの怨嗟と、自分自身の魂の削り節が、黒い澱のように積み重なっていた。




