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第四十四話 筆の震え

 半平太が理想の国を紙の上に築いている間、その寓居の影では、以蔵が静かに刀を研いでいた。

「先生、筆が震えちゅう……。そんなに、お殿様に褒められたいがですか」

影の中から以蔵が、どこか切なげな声を漏らした。以蔵には、半平太の起草する王政復古の論理よりも、その背中から溢れ出す、主君への執着に近い思慕の方が、よほど分かりやすかった。

「……褒められたいのではない。わしが殿の影となり、盾となり、土佐を光り輝かせることで、殿に『真の王』になっていただきたいだけだ。……それが、わしにできる唯一の孝行なのだ」

半平太は自分に言い聞かせると、再び筆を浸した。山城、摂津、大和、近江。朝廷の直轄地として、そこに土佐の志士たちが立ち並ぶ。江戸の籠で沈んでいる容堂が、その知らせを聞き、驚愕し、やがて歓喜の涙を流す……。その幻想が、半平太を修羅の道へと駆り立てていた。

(この建白書が通れば、土佐は、もはや上士と郷士という、二つに分かたれた国ではなくなる。皆が、身分の垣根なく、朝廷の御ためという同じ旗印のもとに立つことができるのだ)

半平太の脳裏には、あの雨の日、泥のぬかるみに膝をついていた老いた郷士の姿が、鮮やかに蘇っていた。

(あの老人のような者が、もう二度と、あのような理不尽に晒されずに済む。傘も差せず、頭を垂れ続ける必要もない。……わしが、この筆一本で、その日を手繰り寄せてみせる)

それは、瑞山にとって、容堂への忠義以上に、深く、静かな願いであった。多くの郷士たちが、ただ、当たり前に、平穏に暮らせる土佐。その景色こそが、瑞山が、二百六十年分の泥の記憶の果てに、たどり着こうとしている、本当の目的地であった。

(殿は、必ず、この建白書に込めたわしの真心を、お分かりくださるはずだ。……わしとて、殿を、心から敬い、慕うておるのだから)

その確信は、瑞山の中で、一片の疑いもなく、静かに根を張っていた。殿との間に隔たりが生まれるかもしれないという発想そのものが、瑞山の頭には、そもそも浮かびようがなかったのである。

「収二郎、わしは……わしは、殿を愛しているのだ。誰よりも、東洋よりもだ。あのような男に、これ以上殿を苦しませるわけにはいかなかった」

「……以蔵。わしの筆が動くたび、血が流れることになる。……おんし、ついてこれるか」

「当たり前ぜよ、先生。わしの命は、あの道場で先生に拾われた時から、先生のものながですき」

その言葉に、瑞山は、筆を止めた。以蔵の、あの泥まみれの顔を拭ってやった日のことが、ふと、脳裏をよぎる。

(以蔵……。おんしのその忠義、わしは、決して軽んじてはおらぬ。じゃが、正直に言えば……わしとて、この血に濡れた道が、心底、恐ろしいのだ。血の匂いは、いつまで経っても、慣れることがない)

その本音を、瑞山は、以蔵にも、誰にも、語ることはなかった。ただ、筆を握る指先に、微かな震えとして、その恐れが滲み出るだけであった。

木屋町の夜風が、鴨川の水音を運んでくる。半平太が放ったこの建白書は、やがて巨大なうねりとなって朝廷を動かし、江戸の容堂を驚愕させることになる。主君を救うための「忠義」が、いつしか主君の頭越しに国を動かす「越権」へと変わっていく。

三条木屋町の小さな寓居。そこは、半平太と以蔵にとっての栄光の頂であり、同時に、破滅へと続く長い坂道の始まりでもあった。

「収二郎、頼む。……この文を、朝廷へ届けろ。わしの、そして土佐の命運、すべてこれに懸けておる」

半平太は、書き終えたばかりの紙を平井収二郎に託すと、背後に控える以蔵に静かに目をやった。収二郎が理想を運び、以蔵がその理想を拒む者の息の根を止める。半平太は、書き終えたばかりの紙に、愛おしそうにそっと指を滑らせた。殿の喜ぶ貌が、ありありと脳裏に浮かんでいた。

(富。……わしは今、こんなにも遠い場所まで来てしまった。だが、この道の果てに、おんしと再び笑い合える日が、必ずあると信じておる)

その願いだけを、瑞山は、この修羅の夜の中で、静かに胸に抱き続けていたのである。

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