第四十三話 都の法
閏八月。藩邸の広間には、小楯――半平太がこの京の都で名乗る、もう一つの名――をはじめ、小南、平井収二郎、小原与一郎ら、気鋭の尊攘派が顔を揃えていた。彼らは「他藩応接役」に任じられ、長州、薩摩、そして公卿たちと対等に渡り合う力を正式に与えられた。
「……収二郎、小南。ついに、ここまで来たな」
武市の声は、かつてないほどに深く、重かった。
「はい。武市さん。これで、土佐の正義を天下に示せます」
一同が歓喜に沸く中、半平太はふと、藩邸の縁側に座り、研ぎ澄まされた刃のように静まり返っている以蔵に目をやった。
「以蔵。……京の空気はどうだ」
以蔵は、夕暮れの鴨川を見つめたまま、低く答えた。
「……先生。ここは、土佐よりもずっと、血の匂いがします。……わしの刀が、勝手に笑うちゅうようです」
「あぁ。……今日からは、言葉の裏で刀が舞う。……以蔵、決してわしの側を離れるなよ」
半平太は、髪留めを贈った富子の顔を思い出した。守旧派の策謀を打ち破り、老公の決断を引き出し、手に入れたこの舞台。だが、それは同時に、土佐勤王党という巨大な刃が、京都という魔都の闇に、深く、深く呑み込まれていく始まりでもあったのである。
鴨川の流れを見つめながら、半平太は己の掌をじっと見つめた。かつて東洋の門前で、屈辱に震えながら握りしめていたあの拳ではない。今、その手には、土佐一藩の運命を動かす「応接役」という重い鍵が握られている。
(東洋先生。あんたが『時間の無駄』だと吐き捨てたわしらの熱が、ついに京の空を焼き始めた。あんたが守ろうとした古い理は、もはやこの都の風には一分も残っておらん)
胸の底から湧き上がるのは、勝利の美酒のような甘い悦ではない。それは、暗い井戸の底で冷たく澄み渡るような、底知れぬ静寂であった。
「……以蔵」
呼びかけると、以蔵は獣のような気配で、静かにこちらを振り向いた。その瞳には、すでに人間としての迷いなど微塵もない。ただ、主の命を待つ「抜身の刀」の輝きだけが宿っている。
(おんしには、すまぬと思うておる。だが、この血生臭い京で、綺麗事だけで殿をお守りすることはできぬのだ。わしが頭となり、おんしが刃となる。それ以外に、土佐が天下の先を駆ける術はない)
(富。おんしの待つ新町の家は、今や遠い夢の底にあるようだ。おんしが守ってくれたあの平穏を、わしは自ら切り捨てて、この魔都の深淵へと足を踏み入れた)
(もう少し、待っちょれ、富。わしが、この土佐を動かしてみせるき。おんしを、いつまでも独りにはしておかぬ。この戦が終われば、必ず、鏡川のほとりに帰る。……その日まで、どうか、待っておってくれ)
その願いは、京の血生臭い夜には、あまりにも不釣り合いなほど、優しく、そして切実であった。瑞山は、その想いを、誰にも知られぬまま、胸の奥深くに、そっとしまい込んだ。
(富。……本当は、今すぐにでも、おんしに会いたい。おんしの側にいて、ただ、おんしの声を聞いていたい。この血に濡れた京の空気が、わしの心を、少しずつ、擦り減らしていくのだ。おんしだけが、その擦り減った部分を、埋めてくれる)
瑞山は、鴨川の流れを見つめながら、これまで誰にも打ち明けたことのない、本当の弱音を、胸の中だけで、そっと零した。
(血の匂いは、正直、苦手じゃ。慣れることなど、決してないのやもしれぬ。……それでも、わしは、この道を進まねばならぬ。ただ、それを、おんしにだけは、いつか、正直に話せる日が来ればよいのだが)
その本音は、瑞山という男の、誰も知らない、最も柔らかい部分であった。表向きは「怪物」の足音を響かせながら、その内側では、ただ一人の女性の温もりを、切実に求め続けている。それが、この夜の、武市瑞山の、偽らざる姿であった。
(殿……容堂公。あなた様は、いずれ必ずお分かりくださる。この武市こそが、誰よりも深く、誰よりも峻烈に、山内の家を、そしてあなた様を想うているのだということを。東洋には成し得なかった、真の忠義を、わしがお見せいたします)
瑞山の胸には、容堂に憎まれているかもしれないという疑念は、欠片ほども浮かんでいなかった。東洋を斬ったことも、この危うい橋を渡り続けていることも、すべては殿のためであり、殿にもいずれ、その真意が届くはずだ。その確信だけが、瑞山を支え続けていたのである。
夜の風が、鴨川の水の匂いと共に、どこか遠くで流された誰かの血の匂いを運んでくる。
「行くぞ、以蔵。明日からは、わしらがこの都の『法』だ。……誰を斬るべきか、その耳でよう聴いておけ」
半平太は立ち上がり、背後の闇を振り払うように一歩を踏み出した。その足音は、もはや一介の郷士のものではない。土佐の意志、日本の動乱。そのすべてを肩に背負った、一個の「怪物」としての足音であった。




