第四十二話 朝命
この停滞を好機と見たのが、藩内の守旧派たちであった。彼らは京都の過激な尊攘の気風を恐れていた。このまま大坂で時を稼ぎ、病が癒えるや否や、京都を素通りして一気に江戸へ下る「東下」を画策していたのである。
「武市さん、あの上士ども、京の都を避けて逃げようとしちゅう。せっかくの好機を、ドブに捨てる気かえ」
平井収二郎が、苛立ちを隠さず武市に詰め寄る。武市は静かに目を閉じ、答えた。
「案ずるな、収二郎。……わしらの同志は、江戸にもおる」
その声は、努めて落ち着いていた。だが、収二郎が去った後、半平太は独り、拳をきつく握りしめていた。
(案ずるな、と言うたが……。正直なところ、わしとて、案じておらぬわけがない。もし、老公が東下を選ばれれば、この計画は、水泡に帰す)
その焦りを、半平太は、決して誰の前でも見せなかった。盟主として、常に泰然としていなければならない。その仮面を保つことに、半平太は、剣術の稽古以上の労力を費やしていたのである。
この頃、半平太は他藩の志士や公卿と渡り合う際、「小楯」という変名を名乗り始めていた。武市半平太という一郷士の名では動かせぬものも、この名を掲げれば、土佐という藩そのものの意志として通すことができる。半平太は、自分の中にもう一つの人格を作り上げるようにして、この名を使い分けていた。
小楯の意を汲み、大監察・小南五郎右衛門が密かに大坂を立ち、江戸へ向かった。品川・鮫洲の藩邸で謹慎生活を送る老公・容堂の元へ、命懸けの直訴に及ぶためである。
半平太は、小南を見送った夜、久しぶりに一人になった部屋で、行灯の灯りを見つめながら、静かに呟いた。
「……頼む、小南殿。おんしの一言に、わしらの、すべての未来がかかっておる」
その声には、これまで誰にも見せたことのない、剥き出しの祈りが滲んでいた。
「……老公。今、土佐が京を捨てて江戸へ下れば、朝廷を軽んじたとして山内家は天下の逆賊となりかねませぬ。何卒、藩主・豊範公の入洛を!」
小南の必死の訴えに、容堂は沈黙した。東洋を殺され、自分の知らぬところで動き出した不穏な「熱」への嫌悪はある。だが、それ以上に容堂は、山内家が朝廷に背く恥辱を恐れた。
「……朝命を拝受せよ。豊範を京へ入れ、勅命を全うさせよ」
その一言が、暗雲を切り裂く一筋の光となった。
その報せが大坂に届いたとき、半平太は、人目もはばからず、思わず安堵の息を漏らした。
(……間に合うた。ようやく、間に合うたのだ)
その瞬間だけは、盟主としての仮面を忘れ、一人の、疲れ切った人間としての、素直な喜びが、半平太の顔に浮かんでいた。
(さすがは、我が殿だ。守旧派どもの東下という誘いを退け、朝廷への義理を貫かれた。……やはり、殿は、わしの見込んだ通りのお方であった)
半平太の胸は、この上ない誇らしさで満たされていた。長年、遠くから仰ぎ見てきた主君が、この重大な局面で、正しき道を選んでくださった。その事実だけで、半平太は、これまでの苦労のすべてが報われたような、深い充足を覚えていた。
「以蔵、聞いたか! 殿が、朝命を拝受してくださったぞ!」
半平太は、珍しく声を弾ませて、傍らにいた以蔵に告げた。その様子は、まるで、憧れの人に褒められた少年のようであった。
「先生、そんなに嬉しそうなお顔、初めて見ました」
以蔵の言葉に、半平太は、はっと我に返り、慌てて表情を引き締めた。
「……いや、何でもない。当然の判断を、殿がなされたまでのことじゃ」
そう取り繕いながらも、半平太の心には、まだ、この喜びの余韻が、温かく残り続けていた。
八月二十五日。麻疹の嵐を抜け出した藩主・豊範の行列は、ついに京都河原町の土佐藩邸に足を踏み入れた。待ち構えていたのは、朝廷からの重い勅命であった。
「在京警備、ならびに諸藩の間に立ちて国事を周旋せよ」
一介の地方藩であった土佐が、この瞬間、日本の中心で「公認の主役」へと躍り出たのである。




