第四十一話 言葉の重さ
文久二年の夏。大坂の土佐藩邸は、重苦しい湿気と死の気配に包まれていた。ようやく東洋という壁を突き崩し、意気揚々と江戸へ向かうはずだった参勤交代の行列を、目に見えぬ敵「麻疹」が襲ったのである。
「……殿の御熱、一向に下がりませぬ」
奥から届く報せに、半平太は苦虫を噛み潰したような顔で、庭に降りしきる雨を見つめていた。藩主・豊範ばかりか、お供の上士たちも次々と病に倒れていく。
(東洋を排してまで開いたこの道が、まさか、目に見えぬ病一つに阻まれるとは)
表向きは静かに構えている半平太であったが、その内心は、日を追うごとに焦燥を募らせていた。狭い藩邸の中に押し込められた若き志士たちの熱量も、行き場を失い、どろりとした不穏な空気へと変わっていく。
その停滞を打ち破るように、瑞山は「大坂での仕事」を以蔵に与えた。それが、東洋の門下であり、暗殺の下手人を追って大坂まで嗅ぎ回っていた下目付・井上佐市郎の抹殺であった。
瑞山は、決して自らの口を「殺し」という卑俗な言葉で汚すことはなかった。
「以蔵。……あの男、井上は、近頃いささか目に余る。殿が病に伏しておられるこの大事な折に、あらぬ疑念を振りまき、藩の和を乱そうとしている」
藩邸の片隅、瑞山は静かに、どこか他人事のようにそう呟いた。そこに「始末しろ」という直接的な命はない。ただ、井上がいかに「正義」の邪魔であるかを、憂い顔で語るのみである。
「……そうですか。先生が、あの男を『目障り』だと、そうお思いですか」
以蔵は、瑞山の微かな眉の動き、声の震え、そのすべてを、獣のような鋭さで感じ取っていた。
「……わかっています、先生。先生の歩く道に、泥が撥ねるのは我慢なりませんき」
瑞山もまた、以蔵が自分の言葉をどう解釈するかを、完璧に理解していた。以蔵が部屋を出ていくとき、瑞山はその背中を呼び止めることも、具体的な釘を刺すこともしない。ただ、沈黙を持ってその殺意を「承認」するのである。
「……外は雨か。夏とはいえ、夜の雨は冷える。気をつけるのだぞ、以蔵」
それが、瑞山が与える唯一の「暗殺命令」であった。
大坂の夜。瑞山が静かに書物を開き、お殿様の快復を祈るような聖人の顔で座しているとき、その「影」である以蔵は、師の不快を拭い去るために、暗い川べりで抜身の刀を構えていた。
以蔵が去った後、瑞山は、なかなか書物に集中できずにいた。
(もし、井上の身に何かあれば、真っ先に疑われるのは、わしらであろう。大坂という他国の地で、下目付が消える。……これほど分かりやすい筋書きが、他にあろうか)
これまで土佐で行ってきた暗殺とは違う。ここは、勝手の分からぬ他国の地である。土地の役人がどう動くか、どこまで調べが及ぶか、瑞山には、正確な見当がつかなかった。
(もし、これがしくじれば。あるいは、しくじらずとも、後日、証拠の一つでも掴まれれば……)
瑞山は、行灯の灯りを見つめながら、これまでにない種類の不安に、幾度も襲われた。剣を交える恐怖とはまた違う、正体の見えない、じわじわと首を絞めてくるような焦りであった。
翌朝、何食わぬ顔で戻ってきた以蔵を、瑞山は静かに迎えた。
「……以蔵。滞りなく、済んだのか」
瑞山の声には、隠しきれない緊張が滲んでいた。だが、以蔵は、まるで昨夜のことなど、何でもない日課であったかのように、平然と頷いた。
「はい、先生。何の障りもございませんでした」
その落ち着き払った様子に、瑞山は、むしろ、たじろいだ。
(……この落ち着きようは、何だ。人一人を、この手で葬ってきたばかりだというに)
かつて泥まみれで、瑞山の手拭いを受けて涙ぐんでいた、あの純朴な少年の面影は、もはや、どこにも見当たらなかった。今、目の前にいるのは、死の匂いを纏いながらも、寸分の動揺も見せない、一人の完成された刺客であった。
(わしの方が、よほど、怯えておるではないか)
その事実に、瑞山は、密かな戦慄を覚えた。自分が育て、自分が導いてきたはずのこの少年が、いつの間にか、自分自身よりも遥かに肝の据わった、恐ろしい存在になっている。その成長を、喜ぶべきなのか、恐れるべきなのか、瑞山自身、判断がつかなかった。
藩主が病に伏し、上士たちが死に怯える中で、瑞山と以蔵だけは、死の匂いを纏うことでその絆をより深めていった。だが、その絆の中で、瑞山だけが、まだ、震える心を抱えていたのである。
麻疹による足止め。それは、土佐勤王党が「政治の組織」から、本格的な「暗殺集団」へと変貌を遂げるための、暗い産みの苦しみの時間であった。




