第四十話 泥を拭った手
京への道中、瑞山は、隣を歩く以蔵の横顔を、ふと見つめていた。先ほど、道中の思案について問うてきた、あの素直な相槌。その様子に、瑞山は、遠い記憶を思い出していた。まだ以蔵が、新町の道場に入門したばかりの、少年の頃のことである。
ある日、城下で以蔵が上士の行列に遭遇した。以蔵は道端に平伏したが、不運にも雨上がりの水たまりが近くにあった。通り過ぎる上士の馬が撥ね上げた泥水が、以蔵の顔を汚した。
「汚い郷士め、そこに居るだけで不快だ」
上士は馬を止め、平伏する以蔵の頭を泥の中に踏みつけようとした。以蔵が腰の刀を握り、殺意が弾けようとしたその瞬間。
「……失礼。その男は、私の門下生でございます」
通りかかった瑞山が、割って入った。瑞山は上士に対し、見事な礼節を保ちながらも、その瞳には相手を射抜くような「位」を宿していた。瑞山という男が放つ圧倒的な風格に、上士は毒気を抜かれ、捨て台詞を残して去っていった。
瑞山は泥まみれの以蔵に手を差し伸べ、自らの白い手拭いで、以蔵の顔の泥を拭った。その手つきは、少年の頬を傷つけまいとするように、驚くほど丁寧で、優しかった。
「……おんし、名は」
「……以蔵、と申します。岡田以蔵」
少年は、震える声で、そう名乗った。瑞山は、その名を、静かに繰り返した。
「以蔵か。……悔しいか。ならば、その力を剣に込めろ。いつか、おんしが胸を張って歩ける土佐を、わしが作ってやる」
以蔵はこの時、初めて「人」として扱われた。二百六十年、誰も拭ってくれなかった一族の泥を、瑞山だけが拭ってくれたのだ。以蔵にとっての尊王攘夷とは、瑞山という男の夢であり、自分を泥から引き上げてくれた「神」への献身そのものであった。
(わしは、以蔵に何かを与えられる。この手拭い一枚で、あの目に、光を灯すことができる)
その瞬間、瑞山の胸に去来したのは、屈辱ではなく、静かな充足であった。上士に対しては、どれほど剣を磨いても、どれほど礼を尽くしても、決して埋まらない溝がある。だが、この目の前の少年に対してだけは、瑞山は「与える者」でいられた。
その日、以蔵を家まで送り届けた後も、瑞山は、しばらくの間、あの少年の泥だらけの顔が、頭から離れなかった。
(あの子は、まだ、こんなにも幼い。……剣の腕を教えるだけでは、足りぬ。あの子には、剣以上に、己を「人」だと思える場所が、必要なのだ)
その夜、瑞山は、富子に、以蔵という少年のことを、珍しく熱心に語った。
「富。今日、道場に、面白い子供が来てな。まだ幼いが、飢えたような、それでいて澄んだ目をしておった。……あの子には、わしが目をかけてやらねばならぬような、そんな気がするのだ」
富子は、その様子を、静かに、しかし嬉しそうに聞いていた。
「半平太様は、本当にお優しい方でございますね」
「優しい、というほどのことでもない。……ただ、放っておけぬだけじゃ」
その言葉を、瑞山は、照れ隠しのように、ぶっきらぼうに口にした。だが、その胸の内には、確かに、以蔵という少年への、本物の情が、静かに芽生え始めていたのである。
(あの日、この手拭いで拭った泥が、以蔵の頬から消えた瞬間から、あやつは、わしのために生きると決めたのだろう)
京への道を進む馬上で、瑞山は、その記憶をなぞりながら、隣を歩く以蔵の姿を、改めて見つめた。あの日の純粋な少年は、今、瑞山の描く大義のために、その剣を振るう覚悟を固めた、一人の刺客となっていた。
(以蔵。おんしを、単なる「道具」だと、わしは、一度たりとも、思うたことはない。……ただ、それを、正しく伝える術を、わしは、いまだに持てずにおる)
その伝えられなかった情こそが、後に、以蔵との間に、埋めがたい溝を生むことになるとは、この時の瑞山は、まだ、知る由もなかった。




