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第三十九話 灰になった信頼

 一方、江戸の藩邸。独り酒を煽る容堂の元へ、その変貌した行列の報せが届く。

「……あやつが、来るのか」

容堂は杯を握りつぶさんばかりに力を込めた。東洋という、唯一無二の理解者を奪われた喪失感。その東洋を殺した張本人が、あまつさえ「殿のため」と抜かして、自分の軍勢を私物化して上京してくる。

(許さん……。武市、おんしは余から東洋を奪い、次は余の『意志』までも奪おうというのか)

容堂にとって、瑞山の「忠義」はもはや愛情ではない。それは、自分の首を絞め上げ、自分を「理想の王」という名の檻に閉じ込めようとする、偏執的な暴力であった。

容堂は、瑞山から届いた建白書を、灯心の火にかざした。じりじりと焼ける紙の匂い。それは、かつてあった主従の信頼が、永遠に灰へと変わる匂いであった。

(東洋。おんしを殺したあの男を、余は死んでも許さぬ。……いつか必ず、この手で地獄へ叩き落としてやる)

炎が、建白書の文字を、一つ、また一つと、舐め尽くしていく。容堂は、その炎を見つめながら、静かに呟いた。

「武市……。おんしが信じておった『忠義』とやらは、この程度のものよ。……紙切れ一枚、火にくべれば、それで終わりじゃ」

その言葉には、しかし、容堂自身も気づかぬ、奇妙な虚しさが滲んでいた。憎むべき相手の証を焼き払っても、胸に空いた穴は、少しも埋まらなかったのである。

同じ頃、京への道中、瑞山は、馬上に揺られながらも、その頭の中は片時も休まることがなかった。

(一藩勤王を成すには、まず、京での足場を固めねばならぬ。朝廷の重臣たちに、いかにして近づくか。長州や薩摩との連携を、どこまで保つべきか……)

瑞山の脳裏には、これから成すべき段取りが、次々と浮かんでは、整理されていった。単なる熱情だけで動いているのではない。東洋を排除したことで手に入れた、この一時の権力を、いかにして確固たる「藩論」へと定着させるか。その具体的な道筋を、瑞山は、一歩ずつ、着実に組み立てていたのである。

(まずは、藩主・豊範公を、京の朝廷に近づけねばならぬ。老公が江戸で謹慎の身である今、若い藩主を、我らの手で導くのだ。……次に、朝廷内で、我らに好意的な公卿を探さねばならぬ。長州の久坂殿の伝手を頼れば、道は開けよう)

瑞山は、懐から取り出した紙に、時折、思いついたことを書き留めていった。それは、単なる志士の熱狂ではなく、一人の政治家としての、周到な計画書であった。

「先生。何を、そのように熱心に、書き留めておいでですか」

傍らに控えていた以蔵が、興味深そうに尋ねた。瑞山は、筆を止めることなく答えた。

「これから、京で何を、どのような順序で成すべきか。……その段取りを、整理しておるのだ」

「段取り、でございますか」

「そうじゃ。志だけでは、藩は動かぬ。志を、確かな『形』にせねばならぬ。それには、緻密な計算と、忍耐が要る」

瑞山のその言葉には、これまでの激情とは異なる、冷静な計算高さが滲んでいた。以蔵には、その全容を理解することは難しかったが、瑞山が、ただ怒りに任せて動いているのではなく、深い考えのもとに、一歩ずつ、着実に前進しようとしていることだけは、はっきりと伝わってきた。

「……以蔵。京に着けば、さらに大きな嵐が待っている。おんしの腕、存分に振るわせてやるからな」

行列の最後尾で、瑞山は一度も振り返らずに歩みを進めた。その先には、血で血を洗う「天誅」の嵐が吹き荒れる京都が待っている。

武市瑞山。彼は今、愛したはずの主君を絶望の淵に追いやりながら、自らもまた、戻れぬ修羅の道へとその足を踏み出したのである。

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