第三十八話 京への道
六月。遅れに遅れた参勤交代の行列が、ついに高知を動き出した。それは藩主の供という形をとりながら、その実、瑞山が率いる百九十二人の「私兵」が中核を担う、異様な武装集団であった。
出立の前夜、瑞山は、なかなか寝付けずにいた。傍らでは、富子が静かに旅支度の最後の確認をしている。その後ろ姿を、瑞山は、じっと見つめていた。
(明日には、この家を、この土佐を離れる。……富と、離れて暮らす日々が、また始まるのだな)
これまでも、江戸への旅立ちなど、離れて過ごした日々は、幾度もあった。だが、今度の旅は、これまでとは、まるで質が違う。血塗られた道の、その先へと踏み出す旅であった。
(正直に言えば……。行きとうない、という気持ちも、この胸のどこかにある。富の側に、ずっとおりたい。ただ、義太夫を唸り、富に笑われ、そんな穏やかな日々を、いつまでも続けたい)
その本音を、瑞山は、決して口には出さなかった。だが、その夜、瑞山は、いつになく長く、富子の傍らに座り続けていた。
「……瑞山様。今夜は、お眠りにならぬのですか」
富子が、そっと声をかけた。瑞山は、少し照れたように、目を逸らした。
「……おんしの側に、もう少し、いたかっただけじゃ」
その言葉に、富子は、静かに微笑んだ。
「私も、同じ気持ちにございます」
翌朝。
「……瑞山様。本当に行ってしまわれるのですね」
門前で富子が、震える手で夫の袖を掴んだ。東洋を殺し、藩を壊し、その残骸の上に築いた「京への道」。富子には、夫の背後に差す光が、もはや後光ではなく、地獄の業火のように見えていた。
「富。わしは、この血に塗れた道こそが、殿をお守りし、土佐を救う唯一の道だと信じている」
瑞山の瞳に、もはや迷いはない。かつての純粋な忠義は、いつしか「自分こそが殿の真の理解者である」という、傲慢で危うい確信へと変貌を遂げていた。
だが、その揺るぎない言葉とは裏腹に、瑞山の手は、富子の手を握ったまま、なかなか離そうとしなかった。
「……富。正直に言えば、おんしと離れとうはない。この道を選んだこと、後悔はしておらぬが、それでも、おんしの側を離れることだけは、いつまで経っても、慣れることがないのだ」
その告白に、富子の瞳に、涙が滲んだ。
「瑞山様……。私も、同じにございます」
富子は、少し躊躇いがちに、それでも、はっきりとした声で、続けた。
「瑞山様。……京には、美しいおなごが、多く集まっていると聞き及びます。明日をも知れぬ志士の方々が、夜な夜な、おなごを求めておられるという噂も、この土佐にまで届いております」
その言葉に、瑞山は、一瞬、驚いたように富子を見た。富子は、それでも、夫の目から視線を逸らさなかった。
「……富。それは」
「案じておるのではございません。ただ……人は、いつ死ぬか分からぬと思えば、その日その日を、精一杯、生きようとするもの。それが、酒であれ、おなごであれ……誰も、それを、責めることはできますまい」
富子の声には、責める色は微塵もなかった。ただ、静かな、深い問いかけがあるだけであった。
瑞山は、しばし、言葉を失った。それから、富子の手を、もう一度、強く握りしめた。
「富。……わしにとって、おんし以外の女子は、この世に存在せぬ。それは、京の都であろうと、江戸の都であろうと、決して変わらぬ」
「……本当に?」
「本当じゃ。……おんしは、忘れたか。わしが、これまで一度たりとも、おんし以外の女子に、心を動かされたことがあったか」
富子は、その言葉に、静かに首を振った。
「いいえ。……忘れてなど、おりませぬ」
「ならば、信じてくれ。たとえ、京の都が、どれほど華やかな誘惑に満ちていようとも、わしの心は、いつも、ここに、おんしの側にある」
その言葉に、富子は、ようやく、心からの微笑みを見せた。
「瑞山様。……お約束、しかと承りました」
富子は、その瞳の奥を、じっと見つめた。
「瑞山様。……もう一つだけ、お約束くださいませ」
「何じゃ」
「どれほど遠くへ行かれようとも、どれほど大きな力をお持ちになろうとも……。あの、江戸で私に贈ってくださった、あの不器用な優しさだけは、決して、お忘れになりませぬよう」
その言葉に、瑞山は、一瞬、目を見開いた。それから、静かに、深く頷いた。
「……忘れぬ。おんしに誓う」
瑞山は、富子の手を、最後にもう一度、強く握りしめてから、ようやく、その手を離した。その約束を胸に、瑞山は、京へと続く道を、後ろ髪を引かれる思いを抱えながらも、一歩、また一歩と、踏み出していった。




