第三十七話 掌の上の上士たち
文久二年、初夏。瑞山はかつてない高揚感の中にいた。
土佐を覆っていた吉田東洋という巨大な「現実」は、もはやこの世にない。言葉を尽くしても届かず、雨の中で何時間待とうとも鼻で笑い飛ばされたあの屈辱の日々は、帯屋町に流れた鮮血によって洗い流されたのだ。
「……瑞山先生。上士たちは互いに疑心暗鬼になり、一歩も城から動けぬようです」
以蔵が道場の隅で、嘲笑を浮かべて報告する。城内は、東洋亡き後の権力争いと、目に見えぬ暗殺の影への恐怖で、文字通りの「内乱」状態に陥っていた。
(東洋先生。あんたが『時間の無駄』だと切り捨てた郷士の熱が、いまや藩を丸ごと飲み込んだのだ。あんたの正論は、死体となって泥に沈んだのだ……!)
瑞山は、暗い歓喜を喉の奥で噛み締めた。
彼はこの混乱を冷徹に利用した。恐怖に震える山内大学ら保守派の重鎮たちに近づき、「御身の警護は我らがお引き受けいたす」と囁く。黒幕が誰かを知りながら、己の命惜しさに瑞山の手を取る老臣たち。かつて瑞山を軽く退けた「上士」という権威が、いまや瑞山の顔色を窺い、その掌の上で転がっている。
だが、その光景を前にしても、瑞山の胸には、素直な勝利の喜びばかりが満ちているわけではなかった。
(これが、わしの望んでおったことか。……上士どもが、頭を垂れる。二百六十年、わしらが夢見てきた景色が、今、目の前にある。じゃが……)
夜、独り、行灯の灯りの下で、瑞山はふと、自分の掌を見つめた。そこには、東洋の暗殺以来、消えることのない、見えない血の匂いが、染み付いているような気がした。
(この手で、直に刃を振るったわけではない。じゃが、この掌の上で、多くの者たちが、震え、怯え、そして、命を落としていく。……わしは、本当に、これで良かったのか)
その自問に、瑞山は、明確な答えを見出せずにいた。目指していたはずの理想と、今、現実に手にしている力。その二つの間に、微妙な、しかし拭いきれない、ずれのようなものを、瑞山は、感じ始めていた。
その日の夜、道場に戻った瑞山は、以蔵にふと漏らした。
「以蔵。……妙なものだな。あれほど恐れられていた上士どもが、今では、わしの顔色を窺うておる」
「先生の思う通りになっておるということでございましょう」
「……そうだな。じゃが」
瑞山は、少し複雑な表情を見せた。
「じゃが、それが、心から嬉しいかと問われれば……よう分からぬのだ。憎んでいた相手が、頭を垂れる様を見ても、思うたほどの晴れやかさはない」
以蔵は、その言葉の意味を、まだ十分には理解できていないようであった。だが、瑞山自身も、自分の胸に去来する、この妙な空虚さの正体を、まだ掴みきれずにいたのである。




