第三十六話 たった一人の友
江戸藩邸の奥、容堂は冷え切った酒を喉に流し込んだ。だが、どれほど呑んでも酔いは訪れず、胸の奥にある黒い空洞を埋めることもできなかった。手元にある武市瑞山の建白書。そこには、瑞山が信じる「理想」が、淀みない墨痕で書き連ねられている。
「……阿呆めが」
容堂は吐き捨てるように呟いた。瑞山は、政治を「清らかなる誠」だと信じている。だが、容堂にとっての政治は、泥水を啜り、嘘を重ね、徳川への義理と藩の存続という二つの巨大な重圧に、背骨を軋ませながら耐え忍ぶ地獄であった。
その地獄を、たった一人、分かち合えた男がいた。吉田東洋だ。
東洋だけは、容堂の孤独を知っていた。容堂が酔態をさらして「酔公」を演じている時も、その裏でどれほど血を吐くような思いで藩の舵取りをしているか、東洋だけは理解していた。東洋は容堂の「片腕」であり、同時にこの世で唯一、背中を預けられる「友」でもあった。
(その東洋を、おんしは殺したのだ。武市、おんしは余から、たった一人の理解者を奪い去った……!)
容堂の指が、建白書を握りつぶす。瑞山が語る「大義」や「勤王」。そんなものは、東洋の命と引き換えにするほどの価値などない。瑞山が正論を吐けば吐くほど、容堂の心には、親友を惨殺された怨念が、どす黒い澱となって溜まっていく。
杯が、いつの間にか空になっていた。容堂は、それに気づくと、苛立たしげに、傍らの空の徳利を、乱暴に振った。
「……酒が足らぬ。持ってこんか」
側近が慌てて新しい酒を運んでくると、容堂は、その動きの遅さに、なおも苛立ちをぶつけた。
「こなくそが。何をぐずぐずしておる。……余は今、酔わねば、正気を保っておられんのだ」
その荒々しい罵声に、側近たちは、ただ黙って頭を下げるしかなかった。誰も、容堂の胸の内に渦巻く、あの深い喪失と憎しみの正体を、正確には理解していなかった。
(余の苦悩も、山内家が背負う三百年の重みも知らぬ郷士風情が、天に代わって討つだと? 笑わせるな)
容堂は、闇の中に瑞山の端正な顔を思い浮かべた。その瞳に宿る、一点の曇りもない「正義」の光。それが、今の容堂には吐き気がするほど忌まわしかった。
「……許さん。断じて、許しはせぬぞ、武市」
容堂の呟きは、呪詛のように湿った夜気に染み込んでいく。瑞山は、東洋を殺すことで藩を自分の色に染められると信じた。だが、それは決定的な間違いであった。東洋の死によって、容堂の心に開いた穴は、もはや瑞山のどのような「誠」によっても埋まることはない。
文久二年。江戸の闇の中で、山内容堂は決意した。武市瑞山という男が、その「理想」と共に破滅するその日まで、自分は決してこの憎しみを忘れないと。




