第三十五話 奪われた理解者
吉田東洋が討たれたという急報が、江戸藩邸で謹慎中の容堂の元に届いた時、彼はまだ酔いの中にあった。
「なに……、東洋が殺られただと?」
差し出された報告書を、容堂はひったくるように奪い取った。鏡川の河原に晒された東洋の無残な首、そして「天に代わって討つ」と記された斬奸状。次の瞬間、容堂の頭に浮かんだのは一人の男の姿だった。
「武市か……。武市瑞山か!」
容堂は持っていた盃を床に叩きつけた。陶器の割れる鋭い音が、静まり返った部屋に響き渡る。
「あやつだ、あやつの目に宿っていた不遜な光はこれだったのだ! 郷士ごときが、余の片腕をもぎ取り、あまつさえ天に代わるなどと……!」
容堂の顔は怒りで真っ赤に染まり、わなないた。東洋を失った喪失感よりも、自分が「利用してやろう」と考えていた端くれの郷士に、足元をすくわれたという屈辱が勝っていた。
「武市をとらえろ! 直ちに兵を出し、あやつをここへ引きずり出せ!」
容堂の怒号が響く。だが、側近たちは顔を見合わせ、動くことができない。
「……殿、落ち着き召されませ。武市は慎重な男。何の証拠もございませぬ。今、無理に動けば、城下の郷士どもが一斉に蜂起いたしましょう」
側近の言葉に、容堂はギリリと歯を噛み締めた。
「おのれ、武市瑞山……」
容堂は、激しい憎悪を込めてその名を呟いた。これまで、利用価値が無くなれば捨てればいいと思っていた。だが、現実は違った。捨てられるのは自分の方だったのかもしれないという、底知れぬ恐怖が容堂の胸をかすめる。
一方、道場では。騒ぎ立てる門下生たちを余所に、瑞山は静かに目を閉じていた。
「先生、お殿様が兵を出すという噂ですが……」
不安げに尋ねる門下生に、瑞山は薄く笑みを浮かべて答えた。
「案ずるな。殿はやがてお気づきになる。誰が真の忠臣で、誰が土佐の未来を担うべき男なのかを」
主君の憎悪を「愛」と勘違いし、破滅への階段を一段ずつ上り始めた瑞山。そして、その首をいつか必ず撥ねてやると心に誓う容堂。二人の関係は、東洋の死という血の犠牲を経て、もはや修羅の道以外に繋がる場所を失っていた。
容堂は、しばらくの間、拳を握りしめたまま、身動き一つしなかった。だが、やがて、その顔に、いつもの豪快な「酔公」の仮面が、静かに戻ってきた。
「……酒じゃ。酒を持ってこい」
容堂は、傍らの側近に、投げやりな調子で命じた。
「殿、先ほど盃を割られたばかりでは……」
「よい。新しいのを持ってこい。……今宵は、浴びるほど呑まねば、やっておれぬ」
側近が慌てて酒を運んでくると、容堂は、それを一気に呷った。その豪快な飲みっぷりの奥に、これから先、決して癒えることのない怒りと憎しみが、静かに、深く沈められていることを、周囲の誰も、気づいてはいなかった。
(東洋。……余は、この酒で、おんしの死を、弔うておるのではない。この酒でしか、武市への憎しみを、抑え込む術がないだけよ)
容堂は、杯を重ねながら、心の中で、そう呟き続けた。




