第三十四話 血よりも重い契約
東洋を仕留めたのを見届けると、以蔵は、那須たちがその場に残るのを横目に、静かにその場を離れた。首を晒す仕事は、那須たちに任せればよい。以蔵の役目は、一足先に道場へ戻り、瑞山に事の次第を報告することであった。
新町の武市邸。以蔵は、雨に濡れた姿のまま、瑞山の前に片膝をついた。
「先生。……終わりましてございます」
瑞山は、行灯の灯りの下、静かにその報告を受けた。表情は、ほとんど変わらなかった。
「……そうか。信吾たちは」
「今、首と斬奸状を、鏡川の河原に晒しに行っております。まもなく、戻って参りましょう」
瑞山は、小さく頷いた。
「ご苦労であった、以蔵。おんしが見届けてくれたおかげで、しくじりはなかった」
以蔵は、その労いの言葉に、深く頭を下げた。だが、その顔には、以前のような無邪気な喜びは、もはやなかった。ただ、静かな、そして底の見えない、暗い充足があるだけであった。
半刻ほどして、那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵の三人が、泥と返り血に汚れた姿で、道場へと戻ってきた。行灯の火がゆらゆらと、その凄惨な形相を照らし出す。彼らの手はいまだに小刻みに震え、瞳には人を斬った者特有の、座ったような光が宿っていた。
「……見事であった」
瑞山の声は、どこまでも静かだった。彼は懐から重みのある紙包みを取り出し、信吾の前に置いた。
「これを持って、今すぐ城下を離れよ。脱藩し、長州へ向かうのだ。あちらの志士たちには、私から文を出してある」
包みの中には、瑞山が工面した当座の路銀と、彼らの新しい人生を繋ぐための軍資金が入っている。郷士にとって脱藩は死罪。だが、瑞山はこの若者たちを単なる「捨て石」にするつもりはなかった。彼らが他藩で生き延び、土佐の「義」を広めることこそが、次の布石になると確信していた。
信吾は包みを握りしめ、瑞山を仰ぎ見た。
「先生……感謝いたします。この御恩、生涯忘れません」
瑞山は信吾の肩を強く掴み、その目をじっと覗き込んだ。その瞳には、師としての慈しみと、頭領としての冷徹な「念押し」が混ざり合っていた。
「よいか、信吾。もし、万が一、道中で捕らえられるようなことがあっても……今回の件、私の名は一切出すな。これは、おんしたちが独断で、国の行く末を案じて成した義挙である。……わかっているな?」
「……。はい。すべては我ら三人の意志。先生には指一本触れさせませぬ」
信吾は深く、深く畳に頭をこすりつけた。瑞山に守られているという実感が、彼らの「沈黙」を鉄の掟へと変えた。自分たちが口を閉ざすことこそが、愛する師を守り、土佐を救う唯一の道だと信じ込まされたのだ。
傍らで、以蔵が、その一部始終を、無言のまま見つめていた。すでに事情のすべてを知る以蔵にとって、この光景は、単なる後始末の一幕に過ぎなかった。だが、その静かな眼差しの奥には、自分だけが先に事を成し遂げ、報告を済ませた者としての、微かな優越感が、確かに滲んでいた。
「行け。夜明け前には国境を越えろ」
三人の影が、裏門から雨の闇へと吸い込まれていく。瑞山はその背中を見送ることもせず、行灯の火を指先で消した。
(これでいい。東洋はいなくなり、実行犯も消えた。あとは、残された私が、この『空白』をどう埋めるかだ……)
瑞山が差し出した金は、単なる路銀ではない。それは若者たちの口を封じ、自分を聖域に置くための、血よりも重い「契約」であった。以蔵は、その一部始終を見届けながら、瑞山という男の、冷徹なまでの周到さを、改めて胸に刻み込んでいた。




