第三十三話 帯屋町の闇
高知城下、帯屋町の暗い路地。降りしきる雨の中、高下駄を鳴らし、傘を差した東洋が、酔いの残る足取りで歩いていた。
不意に、行く手の闇が動いた。
背中を丸め、抜き身の刀を腹の高さに構えた、三つの人影。那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵であった。
東洋の足が、ぴたりと止まった。酔いに緩んでいたはずのその双眸が、一瞬にして、鋭く冴え渡る。
「……何者じゃ」
その声には、一片の怯えもなかった。
「吉田東洋と知っての沙汰なら、容赦はせぬぞ。……この、野良犬どもが」
「誰が犬じゃ!」
叫びながら、那須が真っ先に踏み込んだ。抜き身の切っ先が、雨を裂いて突き出される。
だが、東洋は、その突きを、傘を持ったまま、体を翻すことで、紙一重でかわした。同時に、履いていた高下駄を、無造作に脱ぎ捨てる。素足が、冷たい石畳を捉えた。
東洋は、腰の刀に手をかけ、静かに構えた。その姿には、一分の隙もなかった。酒に酔い、足元も覚束なかったはずの男が、今や、まるで別人のような、研ぎ澄まされた剣気を放っている。
那須、安岡、大石。三人は、思わず、その場でわずかに腰を引いた。
(この男……ただの文官ではない)
那須の背筋に、冷たいものが走った。吉田東洋という男が、かつて藩内随一の遣い手であったという噂を、この瞬間、身をもって思い知らされたのである。
雨音だけが、四人の間の、張り詰めた沈黙を埋めていた。誰も、次の一手を、容易には踏み出せなかった。
東洋の放つ凄まじい殺気に、那須、安岡、大石の三人は、じりじりと後退した。踏み込む機を、誰もが窺いながら、掴めずにいる。
その様子を、少し離れた物陰から、じっと見つめる影があった。岡田以蔵である。
(……出番か)
以蔵は、静かに腰の刀の柄に手をかけた。瑞山から託された「見届け役」。もし三人が仕損じれば、自分が動かねばならない。その覚悟が、以蔵の双眸を、冷たく光らせていた。
三人は、それでも、東洋を三方から囲むように、じりじりと位置を分かれていった。逃げ場を塞ぎ、確実に仕留めるための、必死の陣形であった。
東洋は、その動きを見据えながら、低く笑った。
「……犬の飼い主は、武市か」
その一言に、那須の頬が、微かに痙攣した。だが、東洋は、返答を待つことなく、さらに続けた。
「おんしら犬には、考える頭はなかろう」
その嘲りが、暗闇の中に、冷たく響いた。
その時であった。
路地の角から、四つ目の影が、音もなく姿を現した。以蔵である。まだ手を出す気配はない。ただ、そこに立ち、成り行きを見守っているだけであった。
だが、その一瞬の出現が、東洋の意識を、わずかに、しかし決定的に逸らした。三人の刺客だけに集中していたはずの視線が、一瞬、その新たな影へと引き寄せられる。
その、まさに一瞬の隙を、三人は見逃さなかった。
「今じゃ!」
那須の号令と共に、三方から、同時に刃が突き出された。
三方から突き出された刃が、東洋の体を、深々と捉えた。
「かはっ……」
東洋の口から、くぐもった呻きが漏れた。膝が、ゆっくりと崩れていく。
「くそっ……。酒を、飲み過ぎたか」
その声には、まだ、皮肉めいた余裕が滲んでいた。全身から力が抜けていく中でも、東洋の瞳は、最後まで、三人の刺客を、鋭く見据え続けていた。
「こんな犬どもに……」
「誰が犬じゃ!」
那須が、怒りに任せて叫び、なおも刃を突き入れる。東洋の体が、大きく揺らいだ。
「このこの、この……!」
安岡と大石も、震える手で、止めを刺すように、刃を振るい続けた。雨に濡れた石畳に、赤黒い染みが、みるみる広がっていく。
その一部始終を、少し離れた場所から、以蔵は、微動だにせず見つめていた。三人の刃が確かに東洋を仕留めたことを見て取ると、以蔵は、静かに、しかし抑揚のない声で、告げた。
「……はよ、首を」
その一言に、三人の動きが、一瞬止まった。以蔵の声には、憐れみも、恐れも、何一つ含まれていなかった。ただ、事を成し遂げるための、次の手順を促す、無機質な言葉であった。
那須は、荒い息を吐きながら、以蔵の顔を見た。その瞳の冷たさに、一瞬、ぞくりと背筋が震えた。
(以蔵……。道場では、あれほど無邪気な顔をしておったというに。今宵は、まるで別人ではないか)
だが、今は、そのことを問う暇はなかった。那須は、震える手で、腰の脇差を抜き放った。




