第三十二話 時は今
文久二年四月八日、夜。高知城下を叩く雨は、激しさを増していた。新町の道場には、以蔵が壁に向かって打ち込みを続ける乾いた音が、秒針の如く響き続けている。
だが、それは、いつもの稽古の音ではなかった。以蔵は、これから起こることを、すでに知っていた。瑞山から託された「見届け役」という重い役目を胸に、その緊張を、木刀を振るう動作の中に、静かに紛らわせていたのである。
瑞山は闇の奥で、その背を見つめていた。その瞳に宿るのは、かつての温情ではない。研ぎ澄まされた刃の仕上がりを確認するような、冷徹な光だ。
(以蔵……そろそろ、刻限じゃ)
瑞山は、静かに以蔵へと歩み寄った。以蔵は、木刀を振るう手を止め、瑞山の方を振り返る。二人の間に、言葉はなかった。ただ、瑞山は、以蔵の目を見据えたまま、小さく、しかし確かに、頷いた。
その一つの頷きに、すべての意味が込められていた。「行け」「見届けよ」「しくじるな」――先日交わした約束の、すべてが。
以蔵は、その意を汲み取り、深く一礼すると、静かに木刀を置き、腰の刀に手をかけた。
「……行って参ります、先生」
その声は、これまでのような無邪気なものではなく、覚悟を決めた者の、低く落ち着いた響きを帯びていた。以蔵は、雨の降りしきる闇の中へと、音もなく消えていった。
瑞山は、その後ろ姿を見送りながら、拳を固く握りしめた。
(頼んだぞ、以蔵。……おんしの判断が、この夜の、すべてを左右する)
以蔵の気配が完全に消えると、道場には、瑞山ただ一人が残された。雨音だけが、静寂の中に響いている。瑞山は、暗がりの中、行灯の灯りもつけぬまま、ただ独り、立ち尽くしていた。
(ついに、この時が来たか)
これまで積み重ねてきた迷い、葛藤、そして覚悟。そのすべてが、今、この一瞬に、収斂しようとしていた。瑞山は、ふと、誰に語りかけるでもなく、静かに呟いた。
「……時は今、か」
その言葉に、特別な意味があったわけではない。ただ、瑞山の胸の奥から、自然と零れ落ちた一言であった。だが、その五文字は、奇しくも、同じ夜、遠く離れた城内で、東洋が己の教え子たちに語っていた言葉と、寸分違わず同じものであった。
同じ時刻、高知城内の一室。参政・吉田東洋は、教え子である後藤象二郎や福岡孝弟らを前に、熱の籠もった進講を行っていた。語られるのは、織田信長を討った明智光秀の覚悟。
「……天下を手中におさめたかに見えた信長。だが、その背後には常に、静かなる殺意が渦巻いていた。光秀が愛宕山にて詠んだ発句こそが、これである」
東洋は、墨痕鮮やかな文字を指し示した。
『時は今 あめが下知る 五月かな』
「時は今……。光秀がその胸中に抱いた抜き差しならぬ覚悟が、天下の理を覆した。象二郎、おんしらも忘れるな。歴史が動く時は、常に平穏な顔をして近づいてくるものよ」
象二郎らは食い入るようにその言葉を聴いていた。
「先生! 先がききたがぜよ。光秀の迷い、そして信長公の最期……!」
「ははは、焦るな。その先は、また次の機会に語ってやろう。……外は雨か。今夜は冷え込むのう」
東洋は、用意されていた酒をゆっくりと喉に流し込んだ。冷えた身体に、酒の熱がじんわりと染み渡っていく。象二郎が身を乗り出す。
「先生、先を……信長公の最期を、もっと詳しくきかせてください!」
東洋は酒の回った赤い顔で豪快に笑い、満足げに立ち上がった。
「ははは、焦るな。酒も回った、その先はまた次の機会じゃ。……外は雨か。象二郎、足元を照らせ」
東洋は微かに千鳥足になりながら、象二郎らに見送られ、悠然と夜の闇へと踏み出していった。酒の熱に包まれ、天下の理を説いた全能感とともに。それが、若き上士たちが仰ぎ見た師の、最後ろ姿となった。
この講義の場に、瑞山はいない。東洋が「時は今」の一句を口にしたことも、彼が知る由はなかった。それでもなお、この夜、同じ言葉が、殺す者と殺される者、双方の胸に、示し合わせたように宿ろうとしていた。




