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第三十一話 残酷な男

 その夜。重臣たちを送り出し、独り座る瑞山の元へ、富子が静かに茶を持ってきた。

「瑞山様。……今夜のお客様は、いつになく殺伐とした風を纏っておいででしたね」

富子の声には、深い危惧が滲んでいた。瑞山は、茶碗を包む己の掌が、不思議なほど冷え切っていることに気づく。

「富。……わしは、これから一生、消えぬ汚れを背負う。おんしを、その汚れの中に住まわせることになる」

瑞山は、茶碗を置くと、富子の瞳を真っ直ぐに見つめた。そこには、かつての郷士・半平太の温もりはない。一藩の運命を、そして一人の巨星の命を奪うことを決めた、革命家の貌があった。

だが、その冷徹な表情の裏で、瑞山の胸中は、激しく揺れ動いていた。

(わしは、東洋殿を、この手で斬る度胸すら、持っておらぬ。……那須らに刃を振るわせ、わしは、安全な場所から、それを見届けるだけだ。これほど、卑怯な話があろうか)

幼い日に見た、あの真剣の一閃が、瑞山の脳裏に、今も鮮やかに焼き付いている。人を斬るということの、あの底知れぬ恐ろしさ。それを、瑞山は、生涯、自らの手で行う勇気を、持ち得なかった。だからこそ、他人にその役目を担わせる。それは、剣客としての誇りからすれば、この上なく恥ずべき道であった。

(じゃが……)

瑞山は、拳を握りしめた。

(じゃが、これしかないのだ。わしがどれほど臆病であろうと、どれほど卑怯であろうと、もはや、これ以外に、前へ進む道はない。言葉は尽きた。理も尽きた。残されておるのは、この、血に濡れた道だけなのだ)

その自問自答は、瑞山の胸の内だけで、静かに、しかし激しく繰り返されていた。表向きの威厳を保ちながら、その内側では、臆病な一人の男が、必死にもがき続けている。それが、この夜の、瑞山の偽らざる姿であった。

「いいえ。あなた様が背負うものは、私の背負うものでもございます。……それが泥であれ、血であれ、私は、あなた様のお側から離れはいたしませぬ」

富子の凛とした言葉に、瑞山は一瞬だけ、唇を噛んだ。

(ああ、わしは……なんて残酷な男だ)

富子は、自分がこれから何に加担することになるのか、まだ本当の意味では分かっていない。それでも迷いなく寄り添おうとするその姿が、瑞山にはこの上なく尊く、そして同時に、耐え難いほど心苦しかった。

(富。おんしは、わしがこれから何をなそうとしておるか、詳しくは知らぬ。……いや、知らぬまま、おんしを、この決断に巻き込んでよいものか)

瑞山の胸に、一瞬、迷いがよぎった。すべてを打ち明け、富子に、この道を共に歩む覚悟があるかを、正面から問うべきではないか。だが、瑞山は、その考えを、静かに振り払った。

(否。……これから先、わしが背負う汚れの、その一部始終を、富に語る必要はない。おんしにまで、この手を血で汚す責を負わせるわけにはいかぬ。ただ、おんしには、わしの側にいて、わしを人として繋ぎ止めてくれるだけで、十分なのだ)

その決意を胸に、瑞山は、静かに立ち上がった。

三月。春の嵐が近づいている。瑞山は、闇の中に控えていた那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵ら刺客たちに、静かに目配せを送った。その手は、誰にも気づかれぬほど、微かに震えていた。

だが、瑞山は、この三人だけに事を委ねることに、一抹の不安も抱いていた。

(三人だけでは、万が一の時、心もとない。……もし、しくじれば、この者たちだけでなく、わしも、そして関わったすべての者が、打ち首を免れぬ)

その不安を埋めるため、瑞山は、傍らに控えていた岡田以蔵を、そっと呼び寄せた。

「以蔵。……おんしには、別の役目がある」

「先生。何なりと、お申し付けを」

「信吾たちの後を、離れた場所から見届けよ。万が一、しくじった時は……」

瑞山は、そこで言葉を切った。以蔵は、その先を、黙って待った。

「万が一の時は、おんしの判断で、動け。……この事が仕損じれば、わしも、信吾たちも、皆、打ち首は免れぬ。この土佐勤王党そのものが、根絶やしにされるであろう」

瑞山は、そこで一度言葉を切り、以蔵の目を、まっすぐに見据えた。

「以蔵。……おんしとて、打ち首になりとうはなかろう」

その一言は、これまでの重々しい説諭とは違う、あまりに生々しい、剥き出しの言葉であった。以蔵は、一瞬、虚を突かれたような顔をしたが、すぐに、深く頷いた。

「……はい。それは、御免被りとうございます」

「ならば、しくじるな。おんしの命も、信吾たちの命も、わしの命も、すべてが、この一事にかかっておる」

以蔵は、その重い言葉を、静かに受け止めた。

「……承知いたしました、先生。わしが、しかと見届けます」

その瞳には、迷いも、恐れも、微塵もなかった。ただ、瑞山への絶対的な忠誠だけが、そこに宿っていた。瑞山は、その揺るぎない忠誠に、安堵と同時に、言いようのない重い責任を感じた。

(以蔵。おんしを、この修羅の道の、さらに深いところへと、引きずり込んでしまうのだな)

だが、その自責の念を、瑞山は、今は胸の奥に押し込めるしかなかった。

言葉が死に、理が消えた土佐。武市瑞山は、ついにその手で、歴史の扉を真っ赤に染める決断を下した。臆病者としての自覚を抱えたまま、それでも彼は、その一線を、越えようとしていたのである。

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