第三十話 示唆
文久二年二月。龍馬たちが脱藩し、足元から崩れゆく勤王党を繋ぎ止めるため、瑞山は暗い情念の底へと潜っていった。
(言葉で動かぬなら、背後の力で動かすまで)
瑞山は、かねてより、藩内の情勢を注意深く探っていた。その中で、耳に入ってきたのが、東洋の強引な改革に対する、守旧派の重臣たちの根深い不満であった。
(東洋殿は、あまりに合理を重んじ過ぎる。あの方の政に異を唱える者は、意見の違いというだけで、次々と要職を追われておると聞く。……ならば、あの重臣たちの不満は、わしにとっても、使える駒になるやもしれぬ)
瑞山が目をつけたのは、まさにその、吉田東洋の強引な改革を苦々しく思っていた門閥の上士たち、すなわち「守旧派」の重臣らであった。連枝の山内大学、山内民部、そして家老の柴田備後。かつて自分たち郷士を泥のごとく蔑んだ男たちと、瑞山は密かに通じ、闇の中で手を結んだ。
(郷士であろうが、上士であろうが、この際、構わぬ。利用できる者は、誰であろうと、利用してやろう。……わしは、もはや、好き嫌いで動く段階を、とうに過ぎておるのだ)
それは、目的のために仇敵とさえ野合する、瑞山の冷徹な変貌であった。
(わしは、かつてこの者たちの馬が撥ね上げる泥を浴びて生きてきた。その同じ者たちと、今、手を組もうとしている)
自嘲めいた思いが、瑞山の胸を一瞬よぎった。だが、その苦さもまた、東洋という壁を突き崩すための代償として、彼は静かに飲み下した。
新町の自宅の奥まった一室。灯を落とした密談の場で、瑞山は言葉を選び、慎重に彼らへ説いた。
「東洋先生を、なんとか穏便に政の表舞台から退かせる道はございませぬか。このままでは藩内に血の雨が降り、老公の御心も騒ぎましょう」
表向きは平和的な解決を模索する、塾頭らしい「正論」であった。だが、瑞山の瞳は、重臣たちの口から零れる「本音」を逃さず捉えようと、鋭く光っていた。
沈黙を破ったのは、山内民部であった。彼は忌々しげに吐き捨てるように言った。
「……一人東洋さえ無ければ、他の輩は一事に打ち潰すこともできようものを」
その一言が、静まり返った室内を凍りつかせた。
民部にとっては、単なる願望や呪詛だったのかもしれない。だが、切迫した瑞山の脳裏には、その言葉が鮮烈な「命」となって鳴り響いた。
(……東洋さえ、居らねば)
瑞山は深く頭を垂れた。その影が、行灯の光に揺れて巨大な獣のように壁に伸びる。
(示唆は、下された。これで、この手で血を流す大義名分が整ったのだ。殿を救うため、土佐を救うため……東洋先生、あなたに消えていただく)
瑞山は民部たちの顔を見上げなかった。見れば、そこに宿る自分勝手な権力欲と、己の抱く狂おしいまでの忠義の差に、吐き気がすることを知っていたからだ。




