表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/106

第二十九話 龍馬去りて

 龍馬が、本当に土佐の国境を越えた。

その報せを受けた夜、瑞山は新町の自宅で一人、暗い庭を見つめていた。覚悟はしていたはずだった。あの夜、龍馬自身の口から、脱藩の意志を聞かされていたのだから。それでも、いざ「国境を越えた」という確かな事実を突きつけられると、瑞山の胸には、覚悟していた以上の喪失感が広がった。

龍馬という、どこまでも広く、掴みどころのない風。彼との決別は、瑞山の右腕を切り落とされるような痛みであったはずだ。

「……瑞山様、龍馬様が、本当に……」

富子が、案じるように背後に佇む。瑞山は振り向かず、どこか遠くを見据えたまま、独り言のように漏らした。

「……ああ。あやつは、言葉通りにしよったか」

「龍馬は、土佐の国にはあだたぬ奴よ。……広い処へ、追い放してやったのだ」

(あいつは、わしのような檻の中では生きられぬ。土佐という狭い箱を壊すには、ああいう、天を駆ける龍が必要なのだ)

瑞山は、夜空を見上げた。この空の向こう、龍馬は今頃、どのあたりを歩いているのだろうか。

(おまんは自由でええのぉ、龍馬。……羨ましいとは、口が裂けても言わぬ。じゃが、正直、羨ましくないと言えば、嘘になる)

瑞山は、その思いを、誰にも打ち明けることなく、胸の奥へと押し込めた。自分には、自分の選んだ道がある。龍馬のような自由な生き方は、瑞山には、決して選べぬ道であった。土佐という藩に留まり、その内側から、一つずつ、着実に変えていく。それが、瑞山が自らに課した、逃げ場のない使命であった。

(龍馬。おんしが去った後、この土佐に残された者たちは、皆、以前より重い足取りで歩かねばならぬ。おんしという「風」がなくなった分、誰かが、その隙間を埋めねばならぬのだ)

その「誰か」が、他ならぬ自分自身であることを、瑞山は、痛いほど自覚していた。龍馬のように自由に空を舞うことは、瑞山には許されていない。地に足をつけ、泥にまみれながら、一歩ずつ、この藩を動かしていく。それが、瑞山という男の、選び取った生き方であった。

「富。……わしは、龍馬のようにはなれぬ。じゃが、それでいい。わしには、わしのやり方があるのだ」

富子は、静かに頷いた。

「はい。半平太様には、半平太様の道がございます。……龍馬様には龍馬様の、あなた様にはあなた様の。それぞれの道が、いつか、同じ場所へと繋がることを、私は信じております」

その言葉に、瑞山は、少しだけ、心が軽くなった。

「富。……おんしは、いつも、そうやって、わしの選んだ道を、肯定してくれるのだな。それが、どれほど、わしの支えになっておるか、おんしには分かるまい」

「分かっております。……いいえ、分かっておらずとも、構いませぬ。私は、ただ、あなた様のお側で、その道を、共に見つめていくだけにございます」

瑞山は、龍馬が去った空虚を、冷徹な殺意で埋め合わせようとしていた。同志の脱藩という「瓦解」の危機。それを食い止めるには、もはや猶予はない。

ある日、道場の稽古が終わった後、数人の若い郷士たちが、瑞山を取り囲むようにして詰め寄ってきたことがあった。

「瑞山先生。……お聞きしたいことがございます」

その声には、これまでにない、切迫した苛立ちが滲んでいた。

「どうして、土佐は、いつまでも勤王に踏み切らんがですか。長州も、薩摩も、もう動いておるというに。……先生の仰る『一藩勤王』とやらは、いつになったら形になるがですか」

「わしらは、いつまで待てばよいがですか。……龍馬さんのように、脱藩する方が、よほど早いのではございませぬか」

一人が口を切ると、次々に、同じような不満が瑞山に向けられた。瑞山は、その一つひとつを、黙って受け止めた。

(この者たちの言い分は、間違うてはおらぬ。……わしとて、待たされることに、苛立っておるのだ)

だが、瑞山は、その苛立ちを、決して顔には出さなかった。

「……皆の想い、よう分かった。もう、しばらくの辛抱じゃ。……近く、必ず、大きな動きがある」

瑞山は、そう告げるのが精一杯であった。具体的な計画を、この場で明かすわけにはいかない。だが、その曖昧な言葉に、若い郷士たちの表情には、なおも不満と苛立ちの色が濃く残っていた。

彼らが去った後、瑞山は独り、深いため息をついた。

(もう、限界が近い。あの者たちの怒りが、わしの統率を離れて、勝手に暴発するのも、時間の問題であろう)

(龍馬に続き、また誰かが、脱藩するかもしれぬ。……いや、それだけではない。この停滞が続けば、脱藩どころか、郷士たちの怒りそのものが、抑えの利かぬ形で爆発するやもしれぬ)

瑞山の脳裏には、いつ暴発してもおかしくない、若い同志たちの張り詰めた顔が、次々と浮かんでいた。吉村虎太郎の狂信的な瞳。以蔵の、飢えたような眼差し。彼らの内に燻る怒りは、瑞山が制御できる限界を、すでに超えかけている。

(これ以上、ただ待つだけでは、いずれ、誰かが、わしの与り知らぬところで、暴挙に出るであろう。統率を失えば、二百六十年の泥を晴らすはずの志は、ただの暴徒の乱として、握り潰されて終わる)

その危機感が、瑞山の背中を、否応なく押していた。言葉で動かぬ藩を、脱藩で揺らぐ組織を、再び一つに束ねるための「劇薬」。それは、土佐の闇を赤く染める、鮮烈な血の匂いであった。

だが、その決断を固めながらも、瑞山の胸の奥では、これまで抑え込んできた、もう一つの声が、なおも激しく抗っていた。

(人を、殺す。……いや、正しくは、人を殺させる。わし自身の手を汚すことはせぬ。だが、それは、卑怯ということではないのか)

幼い日、目の当たりにした、あの真剣の一閃。噴き出す血の色。断末魔の声すら上げられなかった、あの郷士の最期。あの日から、瑞山の中で「刀」は、決して軽々しく扱ってはならぬ、恐ろしい何かであり続けた。その恐怖を、瑞山は、剣術の稽古でどれほど汗を流しても、拭い去ることができなかった。

(わしは、東洋殿の血を、自らの手で流す度胸は、持っておらぬ。……それでも、あの男の死を、望んでおる。この矛盾を、どう始末すればよいのか)

瑞山は、拳を強く握りしめた。自分の手を汚さずに、誰かに手を汚させる。それは、剣客としての誇りからすれば、最も卑劣な道であるはずだった。だが、それでもなお、瑞山は、その道を選ぼうとしていた。

(東洋殿。……あなたが、もし、わしらの声に、一分でも耳を傾けてくださったなら。わしは、こんな道を選ばずに済んだであろう。……すべては、あなたが、わしらを人として見なんだ、その報いだ)

その自己弁護めいた思いに縋りながら、瑞山は、ようやく、心の天秤を、決断の側へと傾けた。

瑞山は、手元に控えていた岡田以蔵を呼び寄せる。その瞳には、もはや「教育者」の光はない。

(東洋先生。……もう、時間はございません。あなたの死をもって、わしの土佐を、幕開けとさせていただきます)

三月、土佐の山に桜が咲き始める頃。瑞山の心には、返り血で真っ赤に染まった、凄絶な春が訪れようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ