第二十八話 一藩勤王
文久元年、冬から翌二年春。高知の城下は、凍てつく風の裏側で、爆発寸前の熱気を孕んでいた。
瑞山は、もはや一刻の猶予もないことを悟る。各方面へ執拗に働きかける傍ら、大石弥太郎や坂本龍馬を使者として長州へ放ち、薩長土の密約実現に向けた糸を必死に手繰り寄せていた。
だが、長州から届いた返書には、焦燥が滲んでいた。
「我が藩も、長井雅楽の開国論に汚され、沈み込んでおります。志士たちは皆、この萎微を痛嘆しております」
盟友・久坂玄瑞の悲痛な叫び。天下を動かすはずの三藩連合が、足元から崩れようとしていた。
(長州ですら、これか。ならば土佐はどうなる。このまま東洋に押し潰され、歴史の藻屑となるのか)
瑞山の奥歯が鳴る。その焦燥に、追い打ちをかけるような報せが舞い込んだ。
文久二年二月。久坂の元へ送っていた吉村虎太郎が、飛沫を上げて戻ってきた。
「瑞山先生! 薩摩の島津久光公が、精兵二千を率いて上京なされるとのこと! これは攘夷のための、命を懸けた挙兵に相違ありませぬ!」
若き吉村の瞳は、狂信的なまでの熱を帯びていた。
「今こそ脱藩し、薩摩の義挙に加わるべきです。土佐の藩論が変わるのを待っていては、天下に遅れを取ります!」
だが、瑞山は動かなかった。中段に構えた木刀が微塵も揺れぬように、その志も揺るがない。
「……虎太郎。わしが目指すのは、あくまでも『一藩勤王』だ。名もなき浪人として散るのではなく、土佐という巨大な刃を、丸ごと帝に捧げる。そうでなければ、老公を救い出すことはできぬ」
(一人の命を捨てて、何が変わる。わしは、土佐という船を動かさねばならぬのだ)
その夜、瑞山は、旅立ちの支度を進める龍馬を、密かに呼び止めた。
「龍馬」
「なんですろう、半平太兄」
「……おんし、本当に、脱藩するつもりか」
龍馬は、いつもの飄々とした笑みを浮かべたまま、頷いた。
「はい。……なんとのう、外の風に当たってみとうなったがです。それだけのことですき」
その軽い物言いに、瑞山は、しばし、龍馬の顔を見つめた。その瞳には、迷いも、恐れも、何一つ見当たらない。
「……おまんは、自由でええのぉ」
その一言は、羨望であり、同時に、決別の宣言でもあった。
「わしは、わしのやり方で、土佐を変える。……おんしのように、身一つで天下へ飛び出す度胸は、わしにはない。わしは、この足で、この藩に踏み留まり、内側から突き崩す道を選ぶ」
「半平太兄……」
瑞山は、ふと、思い出したように付け加えた。
「龍馬。……ところで、一つ、頼みがある」
「なんですろう」
「おんしとわし、二人だけの時は、これまで通り、『半平太兄』でよい。……じゃが、皆の前では、『瑞山さん』か、あるいは『先生』と、そう呼んでくれんかや」
龍馬は、きょとんとした顔をした。
「なんでですろう。今更、改まって」
「示しがつかぬのだ。土佐勤王党の盟主が、皆の前で『半平太兄』などと呼ばれておっては、どうにも締まらぬ」
「……瑞山さんも、案外、細かいことを気にするお人ですなあ」
龍馬は、そう言って笑ったが、それ以上は何も言わず、深く頷いた。
「わかりました。皆の前では、瑞山さんと。……じゃが、こうして二人きりの時ぐらいは、半平太兄のままでおらせてください」
「……ああ。それは、構わぬ」
瑞山は、その言葉に、密かに安堵した。天下の盟主としての貌を纏う自分と、龍馬にだけは変わらぬ「半平太兄」でいられる自分。その両方を、瑞山は、この夜、静かに確かめ合っていたのである。
しかし、瑞山の「自重」という重石は、激発する若者たちを繋ぎ止めるには、あまりに重すぎた。納得せぬ吉村が宮地宜蔵とともに闇へ消え、それを追うように沢村惣之丞、そして――坂本龍馬までもが、土佐の国境を越えてしまった。




