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第二十七話 命を落とすまで

 翌朝。瑞山が重い瞼を開け、居間の障子を開けたとき、そこには、昨夜と寸分違わぬ姿の富子が座っていた。

同じ場所。同じ姿勢。手には、昨夜差し出そうとした手拭いが、まだ、そのまま握られている。

「……富」

瑞山は、言葉を失った。

「お富。……まさか、本当に、そこから動かなんだのか」

富子は、静かに顔を上げた。その瞳には、疲労の色こそあれ、一片の後悔もなかった。

「はい。瑞山様が、いつお声をかけてくださるかと思い、動くに動けませんでした」

「馬鹿な……。一晩中ではないか。躰が、冷え切っておるだろう」

瑞山は、慌てて富子の傍らに膝をついた。その手を取ると、案の定、氷のように冷たくなっている。富子は、それでも、静かに微笑んだ。

「瑞山様のお心の冷たさに比べれば、これしきの寒さ、何ほどのこともございません」

その一言が、瑞山の胸を、深く貫いた。これまで、どれほど言葉を尽くしても崩れなかった、瑞山の中の固い殻が、この瞬間、音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。

瑞山は、富子の冷え切った手を、両手でそっと包み込んだ。しばしの沈黙の後、瑞山は、ようやく、重い口を開いた。

「……富。分かった。話そう」

富子は、何も言わず、ただ静かに、夫の言葉を待った。

「わしは、迷っておる。土佐をまとめるため、そして……あの百九十二人の命を、その一人ひとりの人生を、その家族たちの想いをも、この双肩に背負っておる。……今、わしは、大きな決断をせねばならぬところに来ておるのだ」

瑞山の声は、静かであったが、その奥には、これまで抑え込んできたすべての重みが、滲み出ていた。

「卑怯者と、笑うても構わぬ。……罵っても、構わぬ」

「瑞山様……」

「東洋殿とは、もはや、分かり合えぬ。あの方の正論も、わしの誠も、互いに一歩も譲らぬ。……このままいけば、どちらかが、命を落とすまで、続くであろう」

その言葉を口にした瞬間、瑞山は、ようやく、自分自身の中にある、最も暗い覚悟の輪郭を、はっきりと自覚した。富子に語ることで、それは、もはや胸の内だけの、曖昧な考えではなくなっていた。

富子は、しばらくの間、何も言わなかった。ただ、夫の目を、まっすぐに見つめ続けていた。

「……瑞山様。それが、あなた様の選ばれる道であるならば」

富子は、静かに、しかしはっきりと、そう告げた。

「私は、笑いも、罵りもいたしません。ただ、あなた様が選ばれた道の先で、あなた様がどうか、ご自身を見失われませぬよう。……それだけを、願うております」

その言葉に、瑞山は、深く、深く、頭を垂れた。

(富……。おんしは、わしを止めなんだ。わしの罪を、共に背負うと、そう言うてくれたのだな)

朝の光が、障子の隙間から、静かに差し込んでいた。その光の中で、瑞山と富子は、しばらくの間、ただ黙って、互いの手を握り合っていた。これから先、どれほど血に染まる道を歩もうとも、この一瞬の温もりだけは、瑞山の胸に、生涯、消えることなく残り続けることになる。

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