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第二十六話 血盟書

「……お帰りなさいませ、瑞山様」

門影で提灯を掲げていた富子が、夫の姿を認めて歩み寄る。だが、その灯が瑞山の顔を照らし出した瞬間、富子は息を呑んだ。その瞳は、江戸から帰った折の青い炎ではない。深い闇の底でドロドロと煮え立つ、黒い怨念の色を宿していた。

「……瑞山様? 手が、血に……」

富子が震える声で指差した先。瑞山が握りしめていた拳からは、爪が掌に深く食い込み、赤い血が幾筋も滴り落ちている。

「大変。すぐに、手当てを」

富子は、夫の心中を問う前に、まず、その手の傷に駆け寄った。懐から手拭いを取り出し、震える指先で、瑞山の掌をそっと包もうとする。

「……いや。大丈夫じゃ」

瑞山は、その手を、静かに、しかしはっきりと止めた。

「これしきの傷、放っておいても構わぬ」

「なりませぬ。放っておけば、膿みまする」

富子は、なおも手拭いを差し出そうとしたが、瑞山は、頑なに首を振った。

「富。……頼む。今は、放っておいてくれ」

その拒絶に込められた、いつもとは違う張り詰めた響きに、富子は、ようやく異変の深刻さを悟った。単なる怪我ではない。夫の心そのものが、何か大きな苦しみに、押し潰されかけているのだと。

「……何でもない。富、何でもないのだ」

瑞山は、憑き物が落ちたような、掠れた声で応えた。富子は言葉を失い、ただ夫の背中を見つめる。

「瑞山様。……何があったか、私にお話しくださいませ。一人で抱え込まれずとも」

富子は、震える手で、瑞山の袖にそっと触れた。だが、瑞山は、その手を優しく、しかしはっきりと避けた。

「……今宵は、疲れておる。すまぬが、そっとしておいてくれ」

その拒絶は、これまでの二人の間には、決してなかったものであった。富子は、一瞬、傷ついたような表情を見せたが、すぐに、静かに、深く頷いた。

「……承知いたしました。ですが、瑞山様」

富子は、去ろうとする夫の背に、はっきりとした声で、こう告げた。

「瑞山様。私は、あなた様がどのような選択をなされようと、お側を離れません。……お話しくださる時が来るまで、私は、ここで、いつまでも待っておりますから」

その一言に、瑞山の足が、一瞬、止まった。だが、瑞山は振り返ることなく、そのまま居間へと入っていった。富子は、暗闇に消えていく夫の背中を、ただ静かに見送り続けた。

(瑞山様……。あなた様は、私にも言えぬ、何か重いものを、その胸に抱え込まれたのですね)

瑞山は居間に座るなり、灯を消した暗闇の中で一点を凝視した。頭の中からは、もはや「議論」という選択肢は粉々に砕け散っていた。

(言葉が通じぬなら、理が通じぬなら……。東洋先生、あなたがわしを、この道へ追い込んだのだ。あなたが、わしらから言葉を奪ったのだ)

百九十二人の署名が連なる血盟書を、闇の中で静かに引き寄せる。それはもはや、単なる誓いの書ではない。東洋という壁を突き崩し、土佐という殻を内側から爆ぜさせるための、巨大な「死出の旅」への連判状であった。

瑞山は、その血盟書の名を、一つひとつ、指でなぞった。龍馬、以蔵、虎太郎……。この百九十二の命が、これから、どこへ向かっていくのか。その先にあるものを、瑞山は、まだ富子に告げる勇気を、持てずにいた。

(富に、この決意を話せば、おんしはきっと、止めようとするだろう。……いや、あるいは、何も言わずに、ただ受け入れてくれるのかもしれぬ。だが、それを確かめる勇気が、今のわしには、ない)

先ほど富子が告げた言葉が、瑞山の耳の奥に、静かに響いていた。

(どのような選択をなそうと、側を離れぬ、か……。富、おんしは、本当に、そう思うてくれておるのか)

その言葉だけが、この夜、瑞山の胸の内にある、唯一の温かな灯火であった。

武市瑞山の心の中で、あの不器用な義太夫を好んだ「半平太」が、静かに息を引き取った。そこに居たのは、冷徹な殺意と狂おしいほどの焦燥に駆られた、一人の革命家であった。

文久元年、十月末。城下を流れる鏡川のせせらぎも、瑞山の耳には、来たるべき血の雨を告げる不吉な調べにしか聞こえなかった。隣の部屋では、富子が、眠れぬ夜を、独り、静かに過ごしていた。

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