第四話 郷士のわりには
嘉永三年三月。武市半平太は、住み慣れた吹井村を離れ、高知城下へと居を移した。
「富、しばらくは月に何度か戻る形になる。祖父母のこと、頼めるか」
「はい。半平太様は、どうぞ城下でのお務めに励んでくださいませ」
「うむ。……あ、いや、その、寂しゅうなるが」
思わず本音がこぼれ、半平太は慌てて咳払いした。富子はくすりと笑い、何も言わずに送り出してくれた。
半平太が向かったのは、小野派一刀流の達人、麻田直養の道場である。一歩足を踏み入れた瞬間、半平太は空気の違いを肌で感じた。竹刀の音、気合の声――そのすべてが、吹井村とは比べ物にならぬ密度で満ちている。
(ここが、わしの居場所だ)
初めて他流の門弟と立ち合った日のことを、半平太は今もよく覚えている。相手は、上士の子弟で、名の知れた家柄の出であった。周囲の視線は、明らかに「郷士がどこまでやれるか」という、冷ややかな興味に満ちていた。
(見ておれ。家柄で強うなるなら、剣術修行など要らぬはずじゃ)
半平太は、竹刀を構えた瞬間、腹の底からそう吐き捨てた。立ち合いは、あっけないほど早く決着がついた。相手の面を、一撃で捉えたのである。道場の空気が、一瞬にして静まり返った。
半平太の剣は、その日を境に、みるみる冴えわたっていった。入門して間もなく初伝を授かり、二年後には早くも中伝を受ける。麻田の道場において、半平太の存在は、もはや無視できないものとなっていた。
だが、稽古の合間、道場の隅で交わされる噂話が、半平太の耳に届くことがあった。
「あの武市とかいう男、郷士のわりには使うな」
「郷士のわりには、か。上士の子弟なら、とうに免許皆伝じゃろうにな」
(……「郷士のわりには」。この四文字、どこへ行っても付いて回るのう。いっそ額にでも彫り込まれておるのかもしれん)
半平太は内心で自嘲した。もし気心の知れた仲間内であれば、「わしは郷士のわりに、飯も人一倍食うがぜよ」とでも軽口を返して、その場を笑いに変えていただろう。だが、今の半平太に、そんな冗談を口にする余裕はなかった。
(郷士でも、剣では上士に負けはせん。この腕だけは、誰にも文句は言わせぬ)
半平太は、その負けん気を、竹刀を握る手にそっと込めた。剣の稽古を終え、汗を拭いながら、半平太はふと、遠く吹井村の方角を見やった。
(富。待っとれよ。わしは、この城下で、必ず名を上げてみせる。おんしに、恥ずかしい思いはさせぬ)
その夜、道場からの帰り道、雨上がりのぬかるんだ道で、半平太は上士の一団を避け、とっさに頭を下げた。顔を上げたとき、自分の膝が泥に汚れていることに気づく。
(……幼い頃と、何一つ変わっておらぬではないか)
先ほどまでの負けん気が、一瞬にして萎んでいくのを、半平太は感じた。剣では負けぬ。だが、道を譲るその一瞬だけは、いまだに、幼い頃のあの屈辱から、一歩も抜け出せていない。
その疼きは、剣の稽古でどれほど汗を流しても、決して消えなかった。




