第三話 薊(あざみ)の花
ある夏の昼下がり、農作業を終えた半平太が縁側で汗を拭っていた。傍らでは、富子が竹刀で割れた袖を繕っている。
「……富。その……おんしは、わしのところへ来て、後悔はしておらんか」
富子は針を止め、驚いたように振り返った。
「半平太様。後悔など、いたす暇もございません。半平太様が時折こうして、藪から棒に妙なことを仰るのが楽しくて……」
「……妙なこととは何だ、妙なこととは」
半平太は赤面し、わざとらしく空を見上げた。
近所の子供に頼まれて雀の絵を描いていたある日のこと。富子が「お見事な雀ですこと」と言うと、半平太は「雀など、一太刀で斬るより描く方がよほど難しい」とぶっきらぼうに応じながら、余った紙にさらさらと花を描き、無造作に差し出した。
「それは……?」
「……余りだ。捨てても構わん」
そう言って半平太は逃げるように道場へ向かってしまった。富子はその紙を大切に胸に当てた。描かれていたのは、道端にひっそりと、しかし力強く咲く薊の花であった。
自分を飾ることを知らず、ただ一途に家を守る富子を、半平太はこの一輪の花に重ねたのかもしれない。呼び合う声に込められた温度が、土佐の四季を重ねるごとに、深く、静かに増していった。
だがこの穏やかな日々のどこかで、半平太は時折、遠くを見るような目をすることがあった。富子はそれを、ただの物思いだと思っていた。
まだこの時、彼女は知らない。夫の胸の奥に眠る、二百年分の泥の記憶が、いつかこの穏やかな家の空気ごと、遠い場所へ連れ去っていくことになるとは。
嘉永二年の春風は、まだそのことを、誰にも教えてはくれなかった。




