第二話 不器用な誠
嘉永二年の春。武市家の空気は、富子が嫁いでから、まるで別の家のように変わった。
「半平太様、今日もお見事な打ち込みの音でございました」
道場から戻った半平太を、富子はいつも三つ指をついて迎える。半平太は毎回、律儀に「うむ」とだけ返すが、内心では、その一言だけでは足りないと思っていた。
(本当は、もっと色々と話したいのだがな……。この澄ました顔、どうにも直らん)
武骨で一本気な半平太は、道場の門弟や農作業の仲間たちとなら、いくらでも軽口を叩ける。だが、富子を前にすると、なぜか、いつもの調子が出てこない。
ある夜、行灯の火の下で、半平太はぽつりと漏らした。
「富……。わしは、外では誰よりも強く、揺るがぬ男でいなければならん。……だが、ここへ帰っておんしの顔を見ると、不思議と肩の荷が下りるのだ」
「それは、半平太様が誰よりもお優しい方だからにございます。どうぞ、私の前でだけは、ただの『半平太様』でいてくださいませ」
その言葉に、半平太は照れ隠しにふいと顔を背けた。だが、耳たぶだけは、隠しようもなく赤く染まっていた。
そんな堅物で通っている半平太だが、実は誰にも言えぬ「愉しみ」を持っていた。義太夫節である。
夜も更け、祖父母が寝静まった頃。半平太は蔵の隅に身を潜め、独り唸り始める。
「……さて、これなるは、摂津の国……」
だが、これには大きな難があった。半平太は剣術と絵画には類まれなる才を示したが、音律にだけは、天が二物を与えなかったらしい。
「……ぬ、ぬうううう……っ、はあああ!」
隣の部屋で針仕事をしていた富子の耳に、壁を越えて、奇妙な唸り声が届く。道場では眼光ひとつで門弟を射すくめるあの夫が、今、必死の形相で節を外しまくっている。
「くふふ……」
富子は端切れを口に押し当て、笑いを堪えた。やがて満足げな溜息とともに、いつもの威厳ある足音で半平太が戻ってくる。
「富、まだ起きていたのか。……夜更かしは体に毒だぞ」
澄ました顔で告げる半平太に、富子は伏し目がちに三つ指をついた。
「はい。……今夜は、どこからか不思議な『雷』のような音が聞こえてまいりましたので」
「雷……? ああ、北の空が騒がしかったのやもしれぬな」
半平太は堂々と首を振った。己の唸り声が、妻には「節の迷子になった雷」に聞こえているとは、夢にも思わない。富子は布団の中で震える肩を抑えながら、この不器用な夫を、いつまでも愛おしく思うのだった。




