第一話 富子、嫁ぐ
「半平太、また女子の前で固まっちゅうがか」
祖父の半右衛門が、呆れたように笑った。嘉永二年、吹井村。二十一歳の武市半平太は、縁談の席で、対面に座る娘――富子を前に、耳まで真っ赤にして固まっていた。
(……くそ、なんじゃこの緊張は)
半平太は内心で毒づいた。竹刀を持てば誰にも負けぬ。畑仕事も、家の切り盛りも、涼しい顔でこなしてきた。だが、女子を前にすると、途端に舌がもつれる。
本当のところ、半平太は陽気な男だった。仲間内では冗談も飛ばすし、酒の席では笑い上戸だとよく言われる。だが、両親を相次いで亡くし、若くして武市の家を背負うことになってから、その陽気さを見せる余裕は、どこかに置いてきてしまった。
それに――これは誰にも打ち明けたことのない話だが、半平太は、これまで女子というものと、まともに向き合った経験がほとんどなかった。剣術一筋、家のことで手一杯で、そういう浮いた話には、まるで縁がなかったのである。同年代の門弟たちが、時折そういう色めいた話で盛り上がるのを、半平太はいつも、素知らぬ顔で聞き流していた。
(皆、当たり前のように女子の話をするが……わしには、さっぱりわからん)
その無知が、余計に半平太を身構えさせていた。
「半平太様。私は、武市のご先祖様をお守りし、お二方のお世話をさせていただくために参りました」
富子が、静かに三つ指をついた。その凛とした声に、半平太はようやく我に返る。
「あ、いや……その、頼む。……頼りにしておる」
言葉に詰まりながらも、半平太はどうにかそれだけを絞り出した。富子は、驚いたように顔を上げ、それから、くすりと小さく笑った。
「半平太様は、噂に聞いていたよりも、ずっと人間味のあるお方でございますね」
「……噂とは、なんじゃ」
「鬼のように厳しいお方だと」
半平太は、思わず苦笑いを浮かべた。
(鬼、か。……まあ、そう見せておかねば、この家も、道場も、示しがつかぬからな)
婚礼の夜、二人だけになった部屋で、半平太はようやく肩の力を抜いた。だが、その一方で、これから先どう振る舞えばよいのか、まるで見当がつかなかった。
「富。正直に言うと、わしは、本当はもっと、くだらぬ冗談ばかり言う男なのだ。……だが、家長になった以上、そうも言うておられぬのでな」
「あら。それは、楽しみが増えました」
富子が、悪戯っぽく目を細める。半平太は、驚いたように富子を見つめた。その視線の意味を測りかね、半平太はまた、耳まで赤くしてしまう。
「……おんし、変わっておるな」
「半平太様ほどではございませぬ」
富子は、そう言って、少し困ったように微笑んだ夫の様子に、何かを察したようだった。だが、それを言葉にすることはしなかった。ただ、そっと、半平太の傍らに寄り添った。
「半平太様。何も、慌てることはございませぬ。私たちには、これから先、長い時がございますから」
その優しい一言に、半平太の強張っていた肩から、ようやく力が抜けた。
(この人になら――)
その夜、二人は久しぶりに、声を上げて笑い合った。この日から、武市家には、誰も知らない、もう一つの顔を持つ夫婦の物語が始まる。




