第二十三話 二百六十年の泥
土佐における上士と郷士の始まりは、慶長五年、関ヶ原以降からである。その戦火の果てに、土佐の赤土は一度、徹底的に焼き払われた。長宗我部元親が築き、一領具足と呼ばれた地侍たちが守り抜いた誇りは、新領主・山内一豊の入国とともに、泥の下へと押し込められた。
それから二百六十年。土佐は、一つの国でありながら、決して交わることのない二つの種族が住まう牢獄となった。山内家に従い、掛川からやってきた「上士」たちは、城下を我が物顔でのし歩く。対して、土地を奪われ、身分を剥ぎ取られた長宗我部の遺臣「郷士」たちは、人間以下の家畜として、ただ上士の影に怯えて生きることを強いられた。
雨の日、幼い半平太は見た。泥濘のなか、傘を差すことさえ許されず、裸足で震える老いた郷士の姿を。その傍らを、蛇の目傘を差した年若い上士が、嘲笑いながら馬で通り過ぎ、泥を撥ね上げていく。老郷士は、泥にまみれた顔を、それでも懸命に伏せたまま、道端に平伏していた。
だが、その泥は、あまりにも冷たく、あまりにも無情に、老人の顔を叩きつけた。老人は、思わず、呻くように、わずかに顔を上げてしまった。
その一瞬であった。
「……無礼者。この儂の馬が跳ねた泥を顔に受けたくらいで、頭を上げおったか。まるで、儂を恨めしそうに見るその目つき、無礼千万」
上士の声は、静かであったがゆえに、なおのこと恐ろしかった。それは、老人の落ち度ではなく、ただ、老人が痛みに耐えかねて顔を上げた、その仕草そのものを、言いがかりの種にしているに過ぎなかった。
「し、しかし……それがしは、ただ、痛みに、思わず……」
老人が、震える声で言い訳をしようとした、その瞬間。上士の刀が、鞘を離れた。
刃が振り下ろされる、あの一瞬の光。噴き出す血の色。断末魔の声すら上げられなかった、あの郷士の最期。周囲の大人たちは、皆、目を逸らし、見なかったことにして、足早にその場を去っていった。だが、幼い半平太だけは、恐怖のあまり、その場から一歩も動くことができなかった。
(……あれが、真剣というものか)
その日を境に、半平太の中で、「刀」という存在は、単なる武具ではなくなった。それは、人の命を、あまりにも呆気なく、無慈悲に奪い去る、恐ろしい何かの象徴であり続けた。後年、剣術において木刀では誰にも負けぬほどの腕を持ちながら、真剣を抜くことに、根深い恐怖を抱き続けることになる。その原点は、まさにこの日、この光景にあった。
(あの老人は、何一つ悪いことをしていなかった。それだけのことで、命を、あのように呆気なく奪われねばならぬのか)
その理不尽さは、幼い半平太の胸に、二百六十年分の怨嗟と共に、拭いようのない傷跡として刻まれた。
瑞山の家格「白札」は、郷士のなかでは最高位だ。だが、それは同時に、上士たちの傲慢さを、最も近い特権席で見せつけられるという呪いでもあった。どんなに詩を読み、どんなに剣を磨き、どんなに高潔な志を抱こうとも、一歩外に出れば「郷士風情」という四文字が、刃のように瑞山の喉元に突きつけられる。
その夜、まだ幼かった半平太は、寝床の中で、こっそりと母に尋ねたことがあった。
「母上。……なぜ、我らは、上士様に頭を下げねばならぬのですか。頭を上げただけで、殺されねばならぬのですか」
母は、しばし答えに窮した後、静かに、しかし重い声で言った。
「それが、この土佐という国の、定めなのです。……半平太。悔しければ、その悔しさを、いつか、力に変えなさい」
その母の言葉を、半平太は生涯、忘れることができなかった。あの日から、雨が降るたび、そして刀という言葉を耳にするたび、半平太の脳裏には、泥にまみれ、それでも懸命に顔を伏せていた、あの老いた郷士の姿と、その最期が、鮮やかに蘇るのであった。




