第二十二話 雷の約束
そんな瑞山の変化を、誰よりも近くで見つめていたのが富子であった。自宅は連日、殺気立った若者たちで溢れ、瑞山は寝る間も惜しんで書簡を綴り、密談を重ねている。
「瑞山様。……今夜は、少しばかりお顔が峻烈すぎます。お茶を、淹れ直しましょう」
富子が差し出す茶を受け取るとき、瑞山はふと、己の指先がかすかに震えていることに気づいた。
(……わしは、怖いのか。この百九十二名を地獄へ道連れにすることが。それとも、この温かな家を、戦火の中に置くことが……)
瑞山は、富子の顔を見ることができなかった。今の自分は、主君のために、国のために、人を斬る命を下す準備をしている。そんな男が、妻の淹れる穏やかな茶の香りに浸る資格があるのか。
門弟たちが去った後の静けさの中、瑞山は、久しぶりに富子と二人きりの時間を持った。だが、その沈黙は、以前のような穏やかなものではなく、どこか張り詰めた緊張を孕んでいた。
「富。……わしの唸り声、最近は聞こえぬであろう」
瑞山がポツリと漏らすと、富子は少し寂しそうに、しかし慈しむように微笑んだ。
「はい。夜な夜な聞こえていた、あの節の迷子のような雷が聞こえなくなり、我が家も少し寂しゅうなりました。……半平太様。あなた様が天下を背負う瑞山様であっても、この富子にとっては、あの不器用な義太夫に顔を赤くしていた、あの方がすべてにございますよ」
瑞山は胸を突かれた。富子は、瑞山が背負ったものの重さを、そして彼が押し殺した自分自身の「心」を、すべて見抜いていたのである。
「富……。おんしにだけは、正直に言うておく。わしは今、怖いのだ」
その一言を口にするだけで、瑞山の喉は、震えるように詰まった。これまで、誰の前でも見せたことのない弱さであった。
富子は、静かに瑞山の手を取った。
「怖いと思えるうちは、まだ、半平太様は半平太様のままでございます。……瑞山様という重い名に、完全に呑まれてしまわれたわけではないのですね」
その言葉に、瑞山の目頭が、微かに熱くなった。
「富。おんしは、いつも、わしの見えておらぬところを、見ておるのだな」
「それは、私が、誰よりも長く、あなた様のお側におるからにございます」
富子は、そう言って、静かに微笑んだ。その微笑みだけで、瑞山の胸の内にあった、張り詰めた何かが、わずかに緩んだ。
瑞山は、しばし富子の顔を見つめた後、ぽつりと、独り言のように漏らした。
「……富。おんしが居てくれるから、わしは、正気を保てておるのかもしれぬ」
その言葉は、瑞山が生涯を通じて、最も飾らぬ、最も率直な告白の一つであった。百九十二人の命を預かり、これから多くの血を流すことになるであろう自分。その自分をかろうじて人間の側に繋ぎ止めているのは、大義でも、忠義でもなく、目の前にいる、たった一人の女性であった。
富子は、その言葉に、何も答えなかった。ただ、静かに、瑞山の手を、より一層強く握り返した。その沈黙こそが、何よりの答えであった。
「……富。待っておれ。雷は……いつか、この土佐の空を晴らした後に、また思い切り鳴らしてみせる」
瑞山は、富子の荒れた手を一度だけ強く握り、立ち上がった。その瞳には、もはや迷いはない。土佐の停滞を破り、百九十二名の誠を束ね、時代の奔流へと身を投じる。




