第二十一話 百九十二の誠
九月。土佐へ帰国した瑞山を待っていたのは、爆発寸前の熱量であった。
瑞山が江戸で結んだ血盟の話が伝わると、城下、そして農村の至る所から、志を同じくする者たちが新町の武市邸へと集まった。
「武市さんがやるなら、命を預けるぜよ!」
筆頭として署名したのは、あの坂本龍馬であった。龍馬の豪快な筆跡を先頭に、間崎哲馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎、そして岡田以蔵……。身分は低くとも、その瞳に宿る炎は上士の誰よりも明るい。志士たちの数は、瞬く間に百九十二名に達した。
門前には、連日、若者たちの列が絶えなかった。中には、村々から幾日もかけて歩いてきた者もいた。
「武市先生に、この命を預けたい」
そう言って頭を下げる若者の中には、まだ十代半ばと思しき少年の姿もあった。瑞山は、その若さに一瞬、胸を痛めたが、その少年の瞳に宿る、飢えたような光を見て、追い返すことができなかった。
(この者たちを、拒む理由が、わしにはない。……皆、わしと同じ泥を、舐めてきたのだ)
瑞山は、集まった百九十二の名を眺め、頭の中で静かに軍略を練っていた。
(龍馬は風だ。虎太郎は火だ。以蔵は……わしの剣だ。この『塊』を、吉田東洋という壁にどうぶつけるか)
瑞山の表情から、かつての柔和な「半平太」の面影が消え、冷徹なる「盟主・瑞山」の貌が刻まれていった。
「先生、これほどの数が集まるとは、思ってもみませんでした」
若い同志の一人が、興奮した面持ちで言った。瑞山は、静かに頷きながらも、内心では別のことを考えていた。
(この者たちの誠を、決して無駄にはできぬ。……いや、無駄にすることは、許されぬ)
その夜、疲れ切った様子で自室に戻った瑞山を、富子が静かに出迎えた。
「瑞山様。今日も、大層な人数がお集まりだったとのこと。……あなた様のお力は、まことに大したものにございますね」
富子の、飾らない、しかし心のこもった労いの言葉に、瑞山は、一瞬、何も言えなくなった。日頃、上士たちからは決して与えられることのない、まっすぐな称賛。それを、他ならぬ富子から向けられたことに、瑞山の胸は、じんわりと温かくなった。
「……富。おんし、それは世辞か」
「世辞などと。私は、思うたことしか申しませぬ」
「……そうか」
瑞山は、それだけ答えると、さりげなく顔を背けた。だが、その口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。数百人の志士を束ねる盟主が、たった一言の労いで、これほどまでに機嫌を良くしている。それを知る者は、この世に富子ただ一人であった。
(百九十二人の誠より、富の一言の方が、正直、よほど効くな……)
その夜、瑞山は久しぶりに、重責を忘れ、少しだけ穏やかな気分で、行灯の灯りを頼りに、独り書物を整理していた。富子の労いの言葉が、まだ耳の奥に心地よく残っている。
ふと、その心地よさに引かれるように、瑞山の口から、小さな声が漏れ出た。
「……そもそも、これなるは……」
久しぶりに口をついて出た、義太夫の一節であった。百九十二人の同志の重責を背負い、盟主としての貌を崩さずにいた瑞山であったが、この時ばかりは、無意識のうちに、あの懐かしい唸り声を紡ぎ始めていたのである。
「……ぬ、ぬうう……」
一節唸ったところで、瑞山は、はっと我に返った。思わず、部屋の四方を、素早く見回す。
(……いかん。今の土佐勤王党の盟主が、こんな場面を誰かに見られては、示しがつかぬ)
幸い、部屋には誰の気配もなかった。瑞山は、安堵の息を吐きながらも、内心では苦笑していた。
(百九十二人の命を預かる身になっても、これだけは、変わらぬものだな)
その小さな滑稽さが、瑞山にとって、重すぎる責務の中の、ささやかな救いでもあった。夜、独り、盟約書に記された百九十二の名を数え直しながら、瑞山はふと思った。
(この一人ひとりに、それぞれの家族があり、それぞれの人生があったはずだ。わしは、その重みを、すべて背負う覚悟が、本当にできておるのだろうか)
その問いに、瑞山は、まだ明確な答えを持てずにいた。だが、もはや後戻りのできる段階は、とうに過ぎていた。




