第二十話 嵐の帰還
八月。江戸で「草莽」の真理を掴んだ瑞山は、もはや迷わなかった。長州が、薩摩が、水戸が立ち上がろうとしている。ならば、土佐が遅れることは断じて許されない。
「以蔵。……帰るぞ。土佐に、わしらの『国』を作るのだ」
瑞山の瞳には、かつてないほど鋭い「青い炎」が宿っていた。だが、その炎の奥に、瑞山自身しか知らない、もう一つの、揺らめく影があった。
(久坂殿は、攘夷こそが正しき道だと、一片の疑いもなく信じておられる。……だが、わしは、本当のところ、どうなのだろうか)
夜、旅支度を整えながら、瑞山はふと、その自問に立ち止まった。攘夷か、勤王か、あるいは幕府と朝廷が手を取り合う公武合体か。天下の議論は、日々割れ続けている。久坂の語る理屈には、確かに心を打たれる。だが、それが本当に、この国にとっての正しき道であるのか、瑞山自身、確信を持てずにいた。
(わしにとって大事なのは、攘夷そのものではないのかもしれぬ。……久坂殿の思想は、あくまで、土佐の郷士たちを一つにまとめるための、都合の良い「理」に過ぎぬのやもしれぬ)
その思いは、瑞山の胸の奥深くに、誰にも打ち明けたことのない、小さな迷いとして横たわっていた。だが、その迷いを、口に出すことは、決してできない。
(盟主たる者が、揺らいでは、皆がついてこぬ。わしは、確信を持っておる顔をせねばならぬ。……たとえ、この胸の内が、いまだ定まっておらぬとしても)
瑞山は、静かにその迷いを、胸の奥深くへと押し込めた。表向きは、誰よりも峻烈に、誰よりも揺るぎなく、攘夷の大義を語る。その仮面の下で、瑞山は、まだ答えの出ぬ問いを、独り、抱え続けていたのである。
久坂は、江戸を発つ瑞山を見送りながら、傍らの桂小五郎に小さく囁いた。
「あの男、うまく育ちましたな」
桂は静かに頷いた。
「うむ。……だが、育てた駒がいつまで御しやすいままでいるかは、また別の話だ」
久坂はその言葉に、ふと真顔になった。武市瑞山という男の中にある熱は、久坂自身が焚きつけたものであると同時に、久坂の計算をいずれ超えていくかもしれない。そんな予感が、一瞬、彼の胸をよぎった。だが久坂はすぐにその予感を振り払い、次なる同志との会合へと歩き出した。
江戸で交わした諸藩の志士たちとの約束。久坂玄瑞から託された熱情。それらすべてを背負い、瑞山は再び土佐の赤土を目指した。その足取りは、もはや一人の武士の帰郷ではない。一藩をまるごと、時代の奔流へと引きずり込む「嵐」の帰還であった。
それでも、旅立つ前の慌ただしい支度の合間、瑞山はやはり、江戸の小間物屋に立ち寄ることを忘れなかった。
「以蔵。すまぬが、少し待っておれ」
「先生、また、あれでございますか」
以蔵が、呆れたような、それでいて微笑ましいような顔をした。瑞山は、それには答えず、店先で丁寧に品を選んだ。今度は、富子の荒れた手にも優しい、香油の入った小さな瓶であった。
(これで、少しは楽になろうか。……いや、こんなもので、あの苦労が報われるはずもないな)
そう思いながらも、瑞山は、その小さな瓶を、大切に懐へとしまい込んだ。天下国家のための旅であっても、この習わしだけは、瑞山にとって、決して欠かすことのできないものであった。
新町の自宅で、富子は鏡川の風を感じながら、届いたばかりの手紙を胸に抱いていた。手紙から漂う、江戸の焦げ付くような熱気。富子は悟っていた。戻ってくる夫は、もう二度と、義太夫を唸って照れ笑いをするだけの「穏やかな半平太」には戻らないであろうことを。
(半平太様……。あなた様は、もうご自分でも気づかぬうちに、誰かの描いた絵図の中を歩いておいでなのかもしれません)
富子のその予感は、まだ言葉にならないまま、静かに胸の奥にしまわれた。だが富子は、手紙をもう一度読み返し、そこに記された、いつもと変わらぬ武骨な文字を、指先でそっとなぞった。
(それでも、半平太様は半平太様です。どれほど遠くへ行かれようとも、私が見てきたあの人の芯までは、変わりはしますまい)
富子は、その手紙を大切に文箱にしまうと、庭先に出て、夫の帰りを待つように、遠く東の空を見上げた。
文久元年、夏。武市瑞山という名の巨星が、ついにその運命の軌道へと踏み出した。その内には、誰にも見せることのできない迷いを抱えたまま。




