表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/106

第二十話 嵐の帰還

 八月。江戸で「草莽」の真理を掴んだ瑞山は、もはや迷わなかった。長州が、薩摩が、水戸が立ち上がろうとしている。ならば、土佐が遅れることは断じて許されない。

「以蔵。……帰るぞ。土佐に、わしらの『国』を作るのだ」

瑞山の瞳には、かつてないほど鋭い「青い炎」が宿っていた。だが、その炎の奥に、瑞山自身しか知らない、もう一つの、揺らめく影があった。

(久坂殿は、攘夷こそが正しき道だと、一片の疑いもなく信じておられる。……だが、わしは、本当のところ、どうなのだろうか)

夜、旅支度を整えながら、瑞山はふと、その自問に立ち止まった。攘夷か、勤王か、あるいは幕府と朝廷が手を取り合う公武合体か。天下の議論は、日々割れ続けている。久坂の語る理屈には、確かに心を打たれる。だが、それが本当に、この国にとっての正しき道であるのか、瑞山自身、確信を持てずにいた。

(わしにとって大事なのは、攘夷そのものではないのかもしれぬ。……久坂殿の思想は、あくまで、土佐の郷士たちを一つにまとめるための、都合の良い「理」に過ぎぬのやもしれぬ)

その思いは、瑞山の胸の奥深くに、誰にも打ち明けたことのない、小さな迷いとして横たわっていた。だが、その迷いを、口に出すことは、決してできない。

(盟主たる者が、揺らいでは、皆がついてこぬ。わしは、確信を持っておる顔をせねばならぬ。……たとえ、この胸の内が、いまだ定まっておらぬとしても)

瑞山は、静かにその迷いを、胸の奥深くへと押し込めた。表向きは、誰よりも峻烈に、誰よりも揺るぎなく、攘夷の大義を語る。その仮面の下で、瑞山は、まだ答えの出ぬ問いを、独り、抱え続けていたのである。

久坂は、江戸を発つ瑞山を見送りながら、傍らの桂小五郎に小さく囁いた。

「あの男、うまく育ちましたな」

桂は静かに頷いた。

「うむ。……だが、育てた駒がいつまで御しやすいままでいるかは、また別の話だ」

久坂はその言葉に、ふと真顔になった。武市瑞山という男の中にある熱は、久坂自身が焚きつけたものであると同時に、久坂の計算をいずれ超えていくかもしれない。そんな予感が、一瞬、彼の胸をよぎった。だが久坂はすぐにその予感を振り払い、次なる同志との会合へと歩き出した。

江戸で交わした諸藩の志士たちとの約束。久坂玄瑞から託された熱情。それらすべてを背負い、瑞山は再び土佐の赤土を目指した。その足取りは、もはや一人の武士の帰郷ではない。一藩をまるごと、時代の奔流へと引きずり込む「嵐」の帰還であった。

それでも、旅立つ前の慌ただしい支度の合間、瑞山はやはり、江戸の小間物屋に立ち寄ることを忘れなかった。

「以蔵。すまぬが、少し待っておれ」

「先生、また、あれでございますか」

以蔵が、呆れたような、それでいて微笑ましいような顔をした。瑞山は、それには答えず、店先で丁寧に品を選んだ。今度は、富子の荒れた手にも優しい、香油の入った小さな瓶であった。

(これで、少しは楽になろうか。……いや、こんなもので、あの苦労が報われるはずもないな)

そう思いながらも、瑞山は、その小さな瓶を、大切に懐へとしまい込んだ。天下国家のための旅であっても、この習わしだけは、瑞山にとって、決して欠かすことのできないものであった。

新町の自宅で、富子は鏡川の風を感じながら、届いたばかりの手紙を胸に抱いていた。手紙から漂う、江戸の焦げ付くような熱気。富子は悟っていた。戻ってくる夫は、もう二度と、義太夫を唸って照れ笑いをするだけの「穏やかな半平太」には戻らないであろうことを。

(半平太様……。あなた様は、もうご自分でも気づかぬうちに、誰かの描いた絵図の中を歩いておいでなのかもしれません)

富子のその予感は、まだ言葉にならないまま、静かに胸の奥にしまわれた。だが富子は、手紙をもう一度読み返し、そこに記された、いつもと変わらぬ武骨な文字を、指先でそっとなぞった。

(それでも、半平太様は半平太様です。どれほど遠くへ行かれようとも、私が見てきたあの人の芯までは、変わりはしますまい)

富子は、その手紙を大切に文箱にしまうと、庭先に出て、夫の帰りを待つように、遠く東の空を見上げた。

文久元年、夏。武市瑞山という名の巨星が、ついにその運命の軌道へと踏み出した。その内には、誰にも見せることのできない迷いを抱えたまま。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ