第十九話 盟約書
八月、築地の土佐藩中屋敷。湿り気を帯びた夜気の中、瑞山は数人の同志を密室に集めた。行灯の火が壁に揺らす影は、まるで巨大な化け物のようである。
大石弥太郎が、書き上げたばかりの盟約書を、静かに畳の上に広げた。その文字は、まだ墨の香りが残るほど新しい。
「隠居させられた老公の無念を晴らし、一藩を挙げて勤王の志を貫く。……これより、土佐勤王党を結成する」
瑞山の宣言に、部屋の空気が、一段と張り詰めた。集まった同志たちは、皆、固唾を呑んで瑞山を見つめている。
「先生。……この盟約書に名を記すということは、もはや後戻りができぬということでございますな」
若い同志の一人が、震える声で尋ねた。瑞山は、その問いに、静かに頷いた。
「そうじゃ。この一筆は、わしらの命を、土佐の未来に懸けるという証じゃ。……だが、それを恐れる者は、今、この場を去ってもよい。誰も、おんしを責めはせぬ」
沈黙が流れた。だが、誰一人として、その場を動く者はいなかった。
瑞山は、その静寂に満足げに頷くと、盟約書を前に、静かに筆を執った。一字一字に、これまで舐めてきた泥の味と、虐げられてきた仲間の涙を込めていく。
(これが、わしらの反旗だ。山内の殿を『天下の忠臣』へと押し上げ、上士どもの虚飾を剥ぎ取るための、たった一つの道だ)
筆を走らせながら、瑞山の胸の奥では、あの拭いきれない迷いが、なおも小さく疼いていた。
(攘夷が正しいのか、勤王が正しいのか。……わしには、まだ分からぬ。だが、迷うておる場合ではない。この署名の重みだけは、決して揺るがせにはできぬ)
その迷いを押し殺すように、瑞山は一層力強く、筆を紙に叩きつけた。瑞山が最初に署名し、次いで同志たちが続いた。一人、また一人と、筆が紙の上を滑る音だけが、静まり返った部屋に響いた。
最後の同志が筆を置いたとき、瑞山は、その盟約書を、両手で捧げ持つようにして見つめた。そこに並んだ名前の数だけ、命が懸けられている。その重みが、瑞山の双肩に、ずしりとのしかかった。
その筆致は、もはや迷いも躊躇もない、冷徹なまでの殺気を帯びていた。だが、その堂々たる署名の裏で、瑞山の心の中だけは、まだ、静かに揺れ続けていたのである。




