第十七話 埃っぽい夏
だが、夜更けて宿舎の行灯に向かうとき、瑞山の筆が描くのは、天下の情勢だけではなかった。
「富。江戸の夏は、土佐よりもどこか埃っぽく感じる。おんしが用意してくれた薄衣の着物、これほど重宝するものはない。……久坂という男は、実に恐ろしい男だ。だが、この男こそが、わしが見るべき未来を指し示してくれている」
瑞山は、江戸での交流を、まるで幼子がその日の出来事を母親に語るような素直さで、富子に書き送った。天下の英傑たちを相手に、泰然自若として「位」の剣を説く男が、富子への手紙の中では、新しい思想に触れて高揚する心を隠しきれずにいた。
筆を進めながら、瑞山はふと苦笑した。
(久坂殿が今のわしを見れば、「盟主」らしからぬと呆れるやもしれぬな)
だが、瑞山にとって、この手紙だけは、誰に憚ることもない、素の自分をさらけ出せる唯一の場所であった。「瑞山」という新しい号を得て、天下の志士たちの前では威風堂々と振る舞う男が、この行灯の下でだけは、まだ「半平太」のままであった。
「久坂殿は、時折、恐ろしいほどの目でわしを見る。……あの目の奥にあるものが、友誼なのか、それとも別の何かなのか、わしにもまだ、判じかねる」
そう書きながらも、瑞山の筆は止まらなかった。疑念を抱きながらも、この熱狂の渦に、自ら望んで飛び込んでいく。それが、この時の瑞山の、偽らざる姿であった。
筆を置き、瑞山はしばし、行灯の炎を見つめた。頭の中に浮かぶのは、江戸の華やかな志士たちの顔ではなく、土佐で待つ、たった一人の女性の顔であった。
(富。おんしは、これまで一度も、贅沢を望んだことがなかった。地震で家を失っても、百二十人の門弟の世話に追われても、おんしは、いつも笑うて、わしを送り出してくれた)
その恩に、いつか必ず報いたい。それが、瑞山の胸の内に、長く燻り続けている願いであった。
(もし、わしがこの手で、殿に真の忠義を認めていただくことができたなら。もし、土佐が一つにまとまり、わしがその中枢に立つことができたなら――富に、これまでの苦労とは比べ物にならぬほどの、安穏な日々を送らせてやれるはずじゃ)
華美な着物も、贅沢な暮らしも、富子は決して望まないだろう。だが、それでも、これ以上の苦労をかけずに済む場所を、瑞山は、どうしても富子に用意してやりたかった。
(富。今しばらく待っていてくれ。わしが土佐を、そしておんしを、必ず、誰にも後ろ指をさされぬ場所へと導いてみせる)
その願いは、瑞山が久坂の言葉に感化される以上に、彼の胸の奥深くで、静かに、しかし確かな熱を持ち続けていた。天下国家のためという大義と、たった一人の妻を楽にしてやりたいという私情。その二つが、瑞山の中では、いつも分かちがたく結びついていたのである。




