第百五話(エピローグ五話)遠い潮騒 その後
明治24年。函館の外れ、日本ハリストス正教会の聖堂で、一人の老司祭が、静かに祈りを捧げていた。
沢辺琢磨。かつて江戸で商人の時計を盗み、切腹の沙汰を待つ身であったあの若者は、幾星霜を経て、日本人最初のロシア正教司祭という、思いもよらぬ道を歩んでいた。
その日、東京から届いた古い新聞の切れ端が、琢磨の手元にあった。そこには、武市半平太への「贈正四位」の記事が、小さく記されていた。
(半平太様……。いや、瑞山様、と申し上げるべきでしょうか)
琢磨は、聖堂の窓から差し込む光を見つめながら、遠い記憶を辿った。あの雨の江戸の夜。龍馬とともに、自分を闇の中へと逃がしてくれた、あの日の半平太の声。
「行け、琢磨。二度と土佐の土は踏めぬと思え。だが、生きて……生きて、いつかこの国のためにその命を使い切れ」
あの言葉を、琢磨は、これまでの人生の、どの瞬間においても、決して忘れたことがなかった。北の海を漂うように生き、幾度も死を思いながら、それでも「生きて、国のために命を使い切れ」という言葉だけを、支えにしてきた。
(先生。あなた様は、わしのような愚か者の命を、法を曲げてまで救うてくださいました。……その一方で、あなた様は、その後、多くの命を、その手にかけることになったと聞き及びました)
琢磨は、半平太のその後の生涯を、風の便りに、少しずつ聞き知っていた。土佐勤王党の盟主として、天誅の嵐の中心に立ったこと。東洋暗殺の黒幕として処断されたこと。三文字割腹という、凄絶な最期を遂げたこと。
その報せを最初に耳にしたとき、琢磨は、深い困惑を覚えた。自分を救ってくれた、あの高潔な男が、同時に、これほど多くの血を流させる側にも立っていたという事実。それは、琢磨にとって、簡単には呑み込めるものではなかった。
だが、教えを学び、多くの人間の弱さと強さを見つめ続けてきた今、琢磨は、ようやくその矛盾を、静かに受け止められるようになっていた。
(人は、誰しも、一つの顔だけでは生きられぬものなのでしょう。……先生もまた、わしを救った優しさと、多くを裁いた厳しさと、その両方を、その身に抱えておられたのでしょう)
琢磨は、聖堂の祭壇の前に跪き、遠い土佐の空に向けて、静かに祈りを捧げた。
(先生。あなた様が救うてくださったこの命、わしは、あなた様に恥じぬよう、生涯かけて使い切りましてございます。……贈正四位、まことにおめでとうございます。あなた様の御霊が、今、安らかでありますよう)
窓の外では、北の海が、いつもと変わらぬ静けさで、白い波を寄せては返していた。かつて半平太が破った一つの法が、遠い北の地で、一人の男の人生を、確かに救っていたのである。
祈りを終え、静かに立ち上がった琢磨は、ふと、聖堂の窓の外に広がる、北の海を、長い間、見つめ続けた。
(半平太様も……。そして、龍馬さんも……。もう、この世には、おられぬのですね)
その事実が、琢磨の胸に、改めて、重くのしかかった。あの雨の江戸の夜、自分を救ってくれた二人。一人は、三文字割腹という、あまりに凄絶な最期を遂げ、もう一人もまた、志半ばで、何者かの凶刃に倒れた。あれほどまでに、時代の先を駆け、日本という国の行く末を、熱く語り合っていた二人が、今は、もう、どこにもいない。
(わしだけが……。あの頃、あの場所にいた、わしだけが、こうして、生き残っておるがです)
その事実は、琢磨にとって、時に、ひどく、心細いものであった。あの日、闇の中へ、二人に導かれるようにして、逃げていったあの若者。その若者だけが、幾星霜を経て、今、こうして、異国の教えを説く司祭として、生き続けている。
(では、わしに、今、できることは、何であろうか)
その問いに、琢磨は、しばらくの間、静かに、考え続けた。やがて、その答えが、琢磨の胸の内に、はっきりと、形を成していった。
(わしにできることは、二つ。……一つは、こうして、お二人のために、祈り続けること。もう一つは……)
琢磨は、その両手を、静かに、胸の前で、組み直した。
(土佐という国に、これほどまでに真っ直ぐで、これほどまでに不器用で、それでいて、これほどまでに、深く人を愛した男たちがおったのだと、そのことを、これから先の世の中に、しかと、伝えていくことにございます)
その決意は、琢磨にとって、これから先の人生における、静かな、しかし確かな、使命となった。半平太と龍馬、二人の生きた証を、自分が語り継いでいくことこそが、あの雨の夜、法を曲げてまで救ってもらった命の、真の使い道であるように、琢磨には、思えたのである。
(先生。……龍馬さん。……わしは、あなた方から受け取った命を、これからも、大切に、使い切って参ります。あなた方が、共に見ることの叶わなかった、この新しい日本の姿を、わしが、代わりに、しかと、見届けさせていただきます。……そして、あなた方の物語を、これから先の、まだ見ぬ多くの人々に、必ず、伝えて参ります)
その決意を、琢磨は、北の海に向かって、静かに、誓った。窓の外の波音だけが、その誓いを、いつまでも、静かに、包み込んでいた。




