第百六話(エピローグ最終話)鏡川の約束
明治二十四年の初夏。九段坂上の空は、あの日半平太が夢見た「新しい世」を象徴するかのように、どこまでも高く、深く、澄み渡っていました。
富士見軒での直会が終わり、賑やかな祝宴の余韻を背に、富子はひとり、静かにテラスへと出ました。頬を撫でる風は、あの冬の江戸の冷たさも、高知の獄舎を濡らした湿った雨の匂いも、今はもう運んできません。
富子は、懐から一通の古い手紙を取り出しました。それは、かつて江戸から届いた、あの日。柳川左門としての誇りに満ち、七回の謁見を無邪気に喜んでいた、あの「最後の手紙」です。二十六年の月日が流れ、紙は黄ばみ、墨の色もわずかに褪せています。しかし、そこに躍る文字の力強さだけは、今も半平太の熱い体温を伝えてくるようでした。
あの日、半平太は勝利を確信していました。身分を超え、主君に認められ、この手で日本を救うのだと。その自信は、歴史という冷酷な盤面の上では「陶酔」と呼ばれたかもしれません。ですが、富子だけは知っています。その陶酔こそが、一介の郷士を「瑞山」へと変え、土佐の若者たちを、そしてこの国を突き動かす巨大な火種となったのだということを。
「……半平太様。泥を洗ったのは、あなた様の『誠』でしたね」
富子は独り、静かに微笑みました。かつて鏡川のほとりで、上士の馬に蹴散らされた泥水にまみれた半平太の背中。あの時から始まった、果てしない雪辱の物語。獄舎で腹を裂き、三文字を刻んで自らの魂を証明したあの凄絶な最期。そのすべてが、いま、この九段の青空の下で、ひとつの美しい「歴史」として結実したのです。
ふと見上げれば、境内の木々が、青々とした葉を風に揺らしています。花は散っても、その根は深く大地に張り、次の季節へと命を繋いでいく。
(わたくしも、もうすぐ、あなた様の元へ参ります。その時は……また、あの大好きな、下手な義太夫を聞かせてくださいませ。わたくし、今度は笑わずに、最後まで聞き届けてみせますから)
富子は大切そうに手紙を畳み、胸元に収めました。彼女の目に映る景色は、もはや涙で霞んではいません。
武市半平太が命を懸けて夢見た景色。それは、ある男のあまりに真っ直ぐな「勝利への確信」と、それを信じ抜いた一人の女の、静かなる愛の記憶によって、永遠に語り継がれる伝説となったのです。
初夏の光に包まれて、富子は一歩、また一歩と、夫と共に歩むはずだった未来をなぞるように、穏やかに歩き出しました。
その背中には、もう二度と、冷たい雨が降りかかることはなかった。
(完)




