第百二話(エピローグ二話)鏡川のほとりへ
富子の脳裏に、いくつもの記憶が去来する。
嫁いできたばかりの、あの婚礼の夜。庭に咲いた白梅の枝を、そっと差し出してくれた、不器用な夫の姿。「わしは生涯、おんし以外の妻は持たぬ」――その言葉を、富子は生涯、片時も忘れたことがなかった。
蔵の暗がりで、周りに聞こえぬよう小声で唸っていた、あの節の外れた義太夫。「うまい、うまい」と無理をして食べていたウナギ。「先生」と呼ばれ、道場で数百の門弟を従えていた夫が、たった一杯の椀の前で、あれほどまでに困り果てていた姿を思い出すと、富子の口元には、今でも自然と微笑みが浮かんだ。道端にひっそりと咲く薊の花を描き、無造作に差し出してきた、あの不器用な優しさも。
そして、あの冷たい板間で、夫の痛みを感じようと祈り続けた、孤独で長い夜。獄中から届く手紙を、何度も、何度も読み返した日々。死に装束を縫いながら、涙の跡を隠そうと必死になったあの夜。夫が最後まで自分にだけは弱さを見せまいとしていたことも、自分がまた、夫にだけは涙を見せまいとしていたことも、今となっては、富子にとって、二人だけの、誰にも侵されることのない、静かな誇りであった。
自分を信じてついてきてくれた同志を獄に送り、自問自答の果てに「まだまだ!」と叫んで腹を裂いた夫の苦しみが、いま、目の前で頭を垂れる男たちの姿によって、静かに昇華されていくのを感じた。
(半平太様。あの三文字の痛みの中で、あなた様が思うてくださったのが、殿への言葉ではなく、この私であったなら……。それを、確かめる術は、もう、どこにもございません。……ですが、そうであったと、そう信じることだけは、この富に、どうかお許しくださいませ)
その祈りは、富子が二十六年という歳月をかけて、独り、胸の内で育て続けてきたものであった。真実を知る術がないからこそ、富子は、その祈りを、誰よりも大切に、誰よりも固く、抱き続けてきたのである。
(泥を洗ったのは、雨でも、血でもなかったのですね)
あの夜、半平太の白装束を染めた真っ赤な血は、年月を経て、この日の清らかな風へと変わったのだ。山内家も、後藤も、板垣も、そして生き残ったすべての同志たちも、半平太という男が命を懸けて守り抜いた「土佐」という絆の中に、一つに結ばれていた。
感極まった富子の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは悲しみの涙ではなく、二十数年、独りで守り続けてきた「誠」の重みから解き放たれた、安堵の涙であった。
会場を包む雅楽の調べが、半平太の好きだった義太夫よりもずっと美しく、空高く響き渡る。九段の空は、どこまでも青く、澄み渡っていた。それはまるで、あの日半平太が夢見た、新しい日本の夜明けを象徴しているかのようであった。
富子は静かに目を閉じ、心の中で夫に語りかけた。
「半平太様、お聞きですか。皆が、あなた様を称えております。……あなた様が命を懸けて守り抜いたものは、決して無駄ではございませんでした」
富子は、そっと胸に手を当てた。長い歳月の中で、一度たりとも口にすることのなかった、小さな、しかし切ない告白が、この日、ようやく言葉になろうとしていた。
「……半平太様。私はね」
富子の声は、静かに、しかし、確かに、震えていた。
「あなた様が、逝かれてから、二十六年。私は、雷の音を聞くたびに、あの人が、今頃、あの世で、気持ちよう義太夫を唄っておいでなのかと、そう思うようにして、生きて参りました」
その一言は、誰に聞かせるためのものでもなかった。ただ、富子自身が、二十六年という長い歳月の中で、独り、密かに、守り続けてきた、小さな習わしであった。
「雷が鳴るたび、私は、いつも、あなた様の、あの、困ったような、それでいて、どこか誇らしげなお顔を、思い出しておりました。……いつまでも、あの時のお顔が、浮かんでくるのですよ」
富子の頬を、静かに、涙が伝った。だが、その涙は、もはや、悲しみだけのものではなかった。二十六年間、たった一人で守り続けてきた、夫との、誰にも知られぬ、密やかな約束。その約束を、富子は、この日まで、片時も、忘れることなく、守り抜いてきたのである。
「……半平太様。もしまたお会いできる日が来たなら、その時は、ここであなた様のお歌を、お聞かせいただきとうございますわ。あの、節も文句も滅茶々々な、あなた様だけの義太夫を。……あの頃は、笑いを堪えるのに必死で、ついぞ、ちゃんとお聞かせくださいとは、申し上げられなんだ」
その願いは、雅楽の調べにそっと溶け込み、九段の澄んだ空へと、静かに立ち昇っていった。
「さあ、一緒に帰りましょう。私たちの、あの鏡川のほとりへ」




