現場はこちらです
夜のバーは、静かだった。
常連も帰り、カウンターには俺ひとり。
氷を割る音と、低く流れるジャズだけが空気をゆらしている。
「……平和だな。」
磨き上げたグラスにぼんやりと顔を映しながら、そんな独り言をこぼした。まるで嵐の前のなんとやら……そう思っていた次の瞬間。
カラン、とドアベルが鳴った。
「トオルくんっっ!!!!」
勢いよく扉が開き、冷たい夜風が店内をかすめる。その中心に立っていたのは、ゼットレンジャーのピンク――桃崎。
目はうるみ、頬は少し赤い。泣き出す寸前の顔で、突風みたいな勢いのままカウンターへ駆け寄り、両手が音を立ててカウンターに叩きつけられた。
「なんで私、この現場にいないの!?ねぇ!?なんで!?」
「……はい?」
勢いが凄すぎて、内容がまるで入ってこない。
グラスが小さく震える。彼女の瞳は、完全に修羅場を目撃した人間のそれだった。
「なんで私がいない時に、あんな尊い現場が発生してるの!?!?!?」
――なにやらものすごく悔しがっている、ということだけは分かった。
「落ち着け。一体なにが――」
俺の言葉を遮って、ピンクが叫ぶ。
「いまSNSで“#グリーンの本命”ってタグができて、みんなスクショ貼って、角度考察して、『距離5センチ!?』とか『息が混ざってる!!』とか騒いでるのに!落ち着けるわけがないでしょ!」
「………………は?」
俺の返事が空気を割るように低く落ちる。氷の音だけが、場の温度を保っていた。
「ふふふっ…知らないなんて言わせないんだから!」
ピンクはバッグの中をごそごそと荒らし、スマホを引っ張り出す。そのまま、まるで証拠品でも突きつけるように画面を俺の鼻先に押し出した。
そこに映っていたのは、俺とグリーン。テーブルの上にはクレープと、記憶に新しい光景。そして……座っている二人の距離が、確かに近い。自覚はあった。あのとき、俺自身も近いなとは思っていた。……そりゃ外から見れば、いろんな意味で誤解もされるだろう。
ピンクは画面をぐるぐる拡大したりスクロールしたりしながら、まるで実況中継のような勢いで叫んだ。
「見てこの目線!!この手の位置!!はい恋!!完全に恋してるやつのやつ!!ねぇなんで私この現場いなかったの!?一生の不覚なんだけど!!」
「……クレープ食べてただけですよ」
「えっ、なにそれ逆に尊い……トオルさんとクレープとか……ギャップ萌えの極みなんだけど……!」
ただクレープを食ってただけで、どこに萌える要素があるのか。まるで理解できない。
たぶん俺の目は、完全に冷め切っていたと思う。だが、ピンクはそんなことお構いなしにしゃべり続けた。
「ていうかもう、グリーンのファンたちが完全に“公式化”モードなの!“一般人の恋人”とか言われてて、しかもトオルくん、かっこいいってめっちゃ話題になってるんだから!」
「は?」
「あ、ちなみにわたしのお気に入りはこの写真ね。二人が至近距離で見つめ合うこの写真…♡」
スマホの画面には、俺とグリーンが至近距離で見つめ合っている写真。――いつの間に撮られたんだ、こんなの。まるでスチール撮影みたいに綺麗に構図が決まってるのが、逆に腹立たしい。
ピンクはその写真を眺めながら、頬をゆるませてニヤニヤしていた。その顔はまるで、長年の夢が現実になった人間のようだった。
何事かと思えば、ただのどうでもいい話だった。ため息がひとつ、勝手に漏れる。SNSには興味が、知らないところで注目されてるってのは、どうにもめんどくさそうで嫌な話だ。
「トオルさん、これだけだと思ったら大間違いよ!」
「……え?」
「グリーンと、病院も行ったでしょう?」
病院――?記憶をたどる。
心当たりがあるとすれば、子猫を動物病院に連れて行った、あの時のことか。
「ブルーとグリーンとの三角関係って、こっちもSNSですごい話題になってたんだから!!私は現場にいないのに!!悔しい!!」
……たしかに、ブルーの言葉足らずで周囲に誤解が生まれていたのは覚えている。
だが、それまで“話題”になっていたとは‥。
三角関係って、なんだ。頭を押さえながら、俺はもう一度深くため息をついた。
「なので今日は、供給をこの目で確認しにきました!」
「供給って……」
「だってさ~、この目で見たいじゃん?あの“距離ゼロ事件”の主役たちを!!……で、どこ?どこにいるの?グリーンは」
「知らねぇよ。来る予定も、呼んだ覚えもねぇ。」
「あぁ、まだ来てないのね。うん、絶対来るでしょ。」
「そんなバラエティみたいな展開――」
カラン、とドアベルが鳴った。
一瞬、バーの空気が止まる。
微かな夜風が入り込み、カウンターの端に積もった紙ナプキンを揺らした。
落ち着いた声が、その静寂を切り裂く。
「こんばんは、トオルさん。」
穏やかな笑み。場違いなほど整った立ち姿。
――噂の張本人、グリーンの登場だ。
彼はゆっくりと店内に入り、ためらいもなく俺の正面のカウンター席に腰を下ろす。その一連の動作が、あまりにも自然で、まるで“ここが自分の場所だ”と言わんばかりだった。
俺はグラスを持つ手を止め、深く息を吐く。
……うん、バラエティかよ。
隣でピンクが、反射的にスマホを構えていた。目は輝き、完全に“現場記者”の顔になっている。
「現場、再び……!わたしのことは空気と思ってもらって構いませんので!」
「お前がいちばん空気読んでねぇんだよ……」
頭を押さえながら、今度こそ心の底からため息をつく。グリーンは全てを察したようにくすっと笑った。
「なるほど。桃崎さん、こういうの……お好きですもんね?」
そう言うなり、グリーンはカウンター越しに俺の腕を軽く掴み、ぐいっと引き寄せた。カウンターが間にあるせいで、身体の距離は遠いのに――顔だけは、あと数センチ。呼吸が交わるほどの距離にまで、ぐっと近づく。
……こいつ、完全に楽しんでやがるな。
ピンクは――まるで本当に空気になったかのように、さっきまでの騒がしさが嘘みたいに静かになった。
一切、気配がしない。
……いや、逆に怖ぇよ。
「写真は構いませんがSNSに掲載するのは、控えてくださいね。トオルさんが他の人の話題になるのは面白くありませんから」
「もちろんです。独占欲ありがとうございます。ここが天国でした!」
……秒で復活したな、空気。
グリーンが、そんな彼女を横目に見て、ふっと笑った。
「ですが、トオルさんと恋人だと周知されるのは――悪くありませんね。」
俺はグラスを拭く手を止め、静かに息を吐いた。軽く笑って、何でもない調子で口にする。
「……おい、騒ぐのは勝手だが、うるせぇのはごめんだ。お前が責任とれよ」
周りに騒がれようが、自分に害がなければそれでいい。まるで何もなかったかのように俺はまたグラスを磨き始めた。
が、周りの空気が止まった。
グリーンのまつげが一度だけ震え、視線がテーブルの一点に落ちる。ピンクはスマホを構えたまま、口をぱくぱくさせている。
沈黙の中、氷がグラスの中で音を立てた。カラン、と澄んだ音が響く。
グリーンの笑みがふっと消え、目だけが真剣に俺を見た。
「……ええ。幸せにします。」
「は?」
何言ってんだコイツ。
あ、いや、待て。今のはそういう意味じゃ――。
「お前……なんの責任取ろうとしてんだよ。」
その瞬間、グリーンがわずかに身を乗り出した。カウンター越し――ほんの数十センチ。
目の前で、彼の吐息がふっと揺れる。
「それはもちろん、トオルさんのすべてです。」
低く、笑っていない声。そのまま、指先がカウンターの縁をなぞり、俺の手のすぐ隣で止まった。触れそうで、触れない。
「……その責任じゃねぇ。」
俺の低い声が、氷の音にまぎれて落ちる。グリーンはゆっくりと目を細め、唇の端をわずかに上げた。
その距離、もはや息を飲む間もないほど。
「冗談ですよ。……半分は。」
「やめろ。どっちにしてもタチが悪い。」
ピンクが、顔を覆ったまま小さく悲鳴を上げる。
「……無理……尊すぎて酸素が足りない……!」
カラン、と最後の氷が鳴った。今夜の平和は、もう少し先の話らしい。




