布団が最強だった1
朝の7時。空気はまだ冷たく、肌を刺すようだった。俺はとにかく眠かった。
「……ねみぃ……」
たった今、バーのバイトを終えたところ。昨夜は仮眠を取るはずだったのに、気がつけば本に夢中になってしまい、気づいたときには出勤時間。結局、一睡もせずに働き通しだった。そのツケが今、どっと押し寄せている。身体は鉛のように重く、足元はふらつき、視界の端がかすむ。頭の中もぼんやりとして、まるで焦点が合わない。
とにかく帰ろう。余計なことは考えず、布団に飛び込む。それが今の最優先事項だ。本の続きを読みたい気持ちはあるけれど、人間は寝なきゃ死ぬ。まずは寝る。読書はそのあとだ。そう自分に言い聞かせながら、俺は真っすぐ帰路を急いだ。
――そのときだった。
「オニーサン!財布、落としましたよ!」
不意に左腕をぐっと引かれる。
「……は?」
反射的に振り向くと、見知らぬ男が俺の腕をつかんでいた。その手には、茶色い二つ折りの財布。まったく見覚えのないものだった。
「……それ、俺のじゃないです、けど…」
「え?でも、あなたが今落としたの、見たんですよ?」
「……見間違いじゃないですか」
眠気で頭はぼんやりしているし、声もかすれていた。俺のじゃない。そう言えば終わると思って、再び歩き出そうとした——が。
「いやいや、俺ちゃんと見てたから!間違いなくオニーサンのだって!ね?あっ、そこのおまわりさーん!ちょうどいいところにー!」
「は?」
突然男が大声を張り上げた。その声に頭がついていかない。え、なに? 今のってどういう状況?俺の腕をしっかりつかんだままの男は、もう片方の手をぶんぶん振って、誰かを呼んでいる。
……おまわりさん?
まさか、と思った瞬間——
制服姿の警官が二人、足早にこっちへ向かってくるのが見えた。
なんだこの都合の良すぎる展開は。
「どうかしましたか?」
「この人が財布を落としたんですけど、本人は“違う”って言い張るんですよ~」
「……いや、本当に俺のじゃないんで」
「いやいや、落としたでしょ?だからちゃんと声かけたんですよ」
まったく話がかみ合わない。というか、最初から合わせる気がない。なんなんだこいつ。
「えっと……とりあえず、交番のほうで詳しくお話聞かせてもらえるかな?」
(まじか……)
早く帰って寝たい。ただそれだけなのに。事情を聞きたいと言われ、問答無用でそのまま連れて行かれる。頭はもう働いていない。今、自分がどんな状況に置かれているのかさえ、ちゃんと把握できていないのに——
なぜか俺は、交番で事情を説明する事になっていた。
すぐ近くなので、と言われて歩かされた交番。遠ざかる布団。遠のく睡眠。今、俺の人生で一番大事なものが、理不尽に奪われていく音がした。
俺のじゃない財布。
それなのに、あの男は「この人が落としました」と食い下がって譲らない。警察官が財布の中を確認し、身分証を見てようやく「これはあなたのものではなさそうですね」と納得してくれた。……が、それで終わりにはならなかった。
俺も身分証を提示して、本人確認。そのうえで「拾得物に関するトラブル」という扱いになり、なぜか書類を書かされる羽目になる。さらに、改めて経緯の説明を求められた。
「すみません、吉川さん。もう少し詳しく、経緯を教えてもらえますか?」
「……俺が聞きたいくらいなんですけど……」
心の底からそう思う。こっちこそ説明が欲しい。この理不尽すぎる状況、誰か納得できる理由を教えてくれ。
「この財布、この人のじゃないんですか?俺、落としたとこ見たんですけど!」
男はなおも言い張っている。警察官は眉を寄せ、やや慎重な口調で言葉を返した。
「……つまり、君の話では——吉川さんが“誰かの財布を持っていて”、それをこの場所で落とした……ということになりますね?」
「そうっす、たぶんそういう感じです。俺、ちゃんと声かけたんですけど、スルーされちゃって」
(……いや、スルーなんてしてねぇし。落としてもねぇし、最初から俺のじゃないって言ってんだろ)
反論したい。けど、眠気が思考を鈍らせて、言葉が喉で詰まる。その間にも、話だけが勝手に前へ進んでいく。警察官は小さくため息をつきながらメモを取り、ちらりとこちらを見た。
「……では、ご本人からも改めて説明をお願いします」
「…」
これ以上、何を説明しろと?
もう限界だった。眠気が頂点を越え、目を閉じればそのまま眠ってしまう自信すらある。
いっそ、このまま床に倒れてしまった方が、言葉を絞り出すよりよっぽど楽じゃないか。そんな考えが、霞がかった意識の中をよぎった。
「吉川さん、何か落とし物を見かけた記憶はありませんか?どんな些細なことでも構いません。もし思い当たる節があれば——」
「………」
「——私の方からご説明してもよろしいでしょうか」
その時、不意に低くて聞き慣れた声が静かに場の空気を切り裂いた。
この意味不明な状況に、ようやく来たか、という安堵と、遅い、という苛立ちが入り混じった感情がこみ上げる。
「突然失礼いたします。本人から直接話を聞くほうが早いかと思い、お連れしました」
視線が一斉に向けられた先には、グリーン——そしてその横に、グリーンに腕を拘束されながら連れてこられた男の姿があった。無精ひげを蓄えた30代くらいの男。やや動揺しているように見える。
グリーンはゆっくりと警察官たちの前へ歩み出て、穏やかな笑みを浮かべながら、丁寧に一礼した。
「あ、あの……あなたは?」
「綠谷 弘樹と申します。吉川さんとは……詳しいことは控えさせていただきますが、少々、深いご縁がありまして。そして——こちらの方が、財布の持ち主です」
「……え、えぇ……?」
突然現れた見知らぬ男に、警察官たちが戸惑うのも無理はない。グリーンは俺のそばへ歩み寄ると、声を潜めて耳元に囁いた。
「トオルさん、ここからは私に任せてください。……少し休んで」
「……」
眠るつもりはなかった。だが、もう体が限界だった。まぶたを閉じた瞬間、意識が薄れていくのを感じた。
グリーンは俺を一瞥すると、懐から小型端末を取り出し、警察に向けて画面を見せた。
「こちらをご覧ください。"偶然"ですが、少し前の現場映像です。こちらの彼と、財布を拾ったと証言している人物――一緒にいるところがはっきり映っています。」
「……確かに、映っていますね。緑谷さんが連れてきたこの男性、財布の中に入っていた身分証写真とも完全に一致しています。」
「さらに――こちらをご覧ください。彼がわざと財布を落とし、すぐに物陰に隠れる瞬間まで、しっかりと記録されています。」
モニターには、男が周囲を警戒しながらポケットから財布を抜き取り、故意に地面へ落とす姿が鮮明に映し出されていた。
「ちょ、ちがっ……これは誤解だ……!」
交番の中で必死に言い訳を探す男の声は、空気に溶けるように弱々しく消えていく。グリーンは一切の同情を見せず、冷ややかな声で言い放った。
「――最近、こういう手口が流行っていますよね。わざと財布を落とし、拾った通行人に“盗んだだろう”と因縁をつけて示談金を巻き上げる……ですが、残念でしたね。トオルさんを狙った時点で、あなたたちの計画が詰んでましたから」
そうか、俺、嵌められそうになってたのか……。
もう大丈夫そうだと安堵したのか、限界だったのか…。その言葉を聞いたのを最後に、俺の意識は静かに途切れた。




