ただの通りすがりです
カフェのバイトの帰り道。
「本でも買って帰るか」と、帰り道にある書店を思い浮かべながらぼんやりと歩いていた、その時。
突然、爆発音が近くで鳴り響いた。
人々のざわめきと共に、足が自然と止まる。
「……またか」
日常茶飯事の、正義のヒーローとディヴァイアンの衝突。
今日の俺はやられ役のバイトではなく、ただの一般人。巻き込まれる筋合いはない。
そう思って路地に逃げ込もうとした瞬間、視界の端に映ったのは――泣いている子ども。
その奥、ガラス片が散乱する道路で転びかけた通行人の姿も見えた。
(……めんどくせぇ)
そう思いながらも、身体は動いていた。
直後、金属片が空から飛来し、髪をかすめて地面に突き刺さる。
「……っ」
あぶなかった。ほんの数秒遅れていれば直撃してたな‥。
子どもを抱き上げ、通行人の腕を引き、近くの建物の陰へと滑り込むように避難させる。
無事に逃し終えた、その瞬間――太陽みたいに明るい声が響いた。
「すっごい……!!」
駆け寄ってきたのは、全身真っ赤なヒーロースーツの男――正義のヒーロー、レッド。
「今の!完全に狙われた場所だったのに、スッと動いて子どもと通行人まで守って……!」
「は?いや、俺は――」
「俺、レッドって言います!ヒーローやってます!」
……見りゃ分かる。
「俺なんか反応してからじゃ絶対間に合ってなかった!でもあなた、迷いなく飛び込んでて、もう……!」
そりゃ俺なんか反応もできてないしな。
レッドの目は星のようにキラキラ輝いていた。
「本物のヒーローみたいだった!」
(いや俺、通りすがりのフリーター……)
レッドの一方的な熱量に圧倒されかけていたそのとき――
すっと空気が変わった。熱気を断ち切るような、静けさが背後から降りてくる。
「……レッド。現場の応援はどうしたんですか?」
その声は静かで穏やか。けれど、否応なく背筋が伸びる。
振り返れば、緑のヒーロースーツに身を包んだ男――グリーンが、いつの間にか背後に立っていた。
その瞳は柔らかく細められていたが、奥には何か鋭く冷たいものが光っている。
「グリーン!あのさ、聞いてよ!この人がさ――!」
レッドがいつもの調子で話しかけるが、グリーンはその言葉を遮り、淡々とした口調で続けた。
「ええ、最初から”全部”見ていましたよ」
「ね、すごいだろ?俺なんかより、ずっとかっこよくてさ。思わず尊敬しちゃったよ!」
レッドが満面の笑みを浮かべて、まっすぐにそう言った。
その無垢な言葉に、グリーンはほんの少し目を細め、口元に静かな笑みを浮かべる。
「尊敬、ですか。……それなら気分を害さずに済みそうです」
その声は穏やかだったが、微かに何かを探るような含みがあった。
そして、レッドに向いていた視線がふいに俺へと移った。
「こんにちは、トオルさん。今日も会えて嬉しいです。お怪我はしてませんか?先ほどのあなたは優しさが滲み出ていて……」
グリーンは、少しだけ目を伏せ、柔らかく微笑む。
「思わず惚れ直してしまいました」
(惚れんな。そもそも滲んでねぇ)
呆れたように心の中で突っ込むトオルの前で、グリーンは一歩、さらに距離を詰めてきた。
「でも……ほんの少し目を離しただけで、こんな危険な目に遭うなんて」
そう言いながら、自然な流れのように腕を伸ばし、トオルの腰を抱き寄せる。
そのまま、ぐっと強く――逃げられない程度に、けれど確実に包み込んでくる。
「……離せ」
「無理です。もし、また同じようなことがあったらって思うと……正直、気が狂いそうで」
(……言ってることは甘いけど、やってることが重すぎるんだよ)
逃れようとすれば、すぐにでも力がこもりそうな腕。
グリーンの表情は変わらない。どこまでも優しげで、静かで――けれど、それが逆に逃げ場を失わせた。
思わず、トオルは深く、長い溜息をついた。
「……ほんと、無事でよかったです。もしトオルさんに何かあったらと思うと……」
グリーンの声は低く、静かだった。
その口ぶりには、ごくわずかに――それでもはっきりと、切実さが滲んでいた。
その雰囲気を破るように、突然――
「えっ、グリーン…もしかしてこの人と知り合い!? すごい偶然だな!」
レッドが声を張り上げて、パッと目を輝かせる。
眩しいくらいの笑顔。悪気は一切ない。それがむしろ、場の空気に逆風のように吹き込んだ。
一瞬、時間が止まったような沈黙。
「ええ、偶然ですね」
グリーンはやわらかな笑みを浮かべたまま、わずかに視線だけでレッドを見下ろす。
その微笑みは、どこまでも穏やかで――
けれど、その奥にひやりとした静かな刃が潜んでいた。
完全に空気を読まず、レッドはなおも満面の笑みで話しかけてくる。
「この人、トオルさんって名前?ぜひ今度、手合わせ願いたいなぁ!きっとすっごく強い人なんだろ?!」
(待て。なんでそうなる)
心の中で即ツッコミを入れた。
ヒーローと手合わせなんかしたら、間違いなく骨が砕ける未来しか見えない。
「……レッド、それは許可できません」
グリーンが静かに口を開く。
声はあくまで穏やかだが、背後にぴたりと張りついた冷気がはっきりと伝わる。
「え、なんで?」
レッドが首をかしげて問うと、グリーンはゆっくりと微笑んだ。
「……彼に触れることを、僕が許すとでも?」
その笑顔はあまりにも自然でやわらかくて――
それだけに、逆に恐ろしいほどの“本気”がにじんでいた。
(…目が一切笑ってねぇ)
案の定、レッドはまったく気づいていない。
「えー?そうなの?そっか~……じゃあさ、戦わないとしても仲良くなるくらいはいいだろ?今度一緒にご飯行こう!カレー!めっちゃ美味い店知ってるんだ!」
「却下です」
グリーンは即答した。まったく間を置かず、ためらいもなかった。
「えーーーーーっ!? なんで!? 飯くらい、いいじゃんか~~!」
「……問題は“誰と”食べに行くかです。理解できませんか?」
微笑みを浮かべたまま、しかしその声には鋭く隠しきれない棘がある。
一歩間違えれば、グリーンの手から「優しさ」という仮面が滑り落ちそうな気配すらあった。
(頼むから、これ以上地雷を踏み抜かないでくれ……)
「……それより、レッド。まだボスが現場に残っていますよね?」
「あっ、そうだった!」
レッドはぱっと顔を上げ、ようやく背後の騒音に気づいた。
「じゃあ行ってくる!トオルさん、またー!」
無邪気に手を振りながら、勢いよく駆けていく。
空気?読んでない。
けれど悪意も、まったくない。
(……なんなんだ、あいつ。あの陽気、どうやって保ってんだ)
トオルが呆れて目で見送る間に、周囲は一気に静かになる。
そのタイミングを待っていたかのように、グリーンの手がするりと手首を取ってきた。
逃れようとすれば即座に力を込めてくるであろう、絶妙な圧。
「……さて。今日は、僕と一緒に帰りましょうね」
「‥なんでだよ」
「だって、また何かあったらどうします?ほんの数分、目を離しただけでこのザマですよ」
声はやさしい。けれど、そのやさしさはもはや“選択肢”を与えるものではなかった。
「……次にあなたの身に何か起きたら、今度こそ本当に攫ってしまうかもしれません」
ぽつりと落とされた言葉に、冗談めいた響きはなかった。
「……通報すんぞ」
「ええ、ぜひ。対応するのは私ですので、安心してください。あなたを堂々と保護できますね」
お前が一番安全じゃねぇ‥。
にこりと笑うグリーンの瞳が、冗談を一切許さない熱を灯している。
理不尽な執着を受ける理由も、逃げ道も、まるで見つからない。
けれど――グリーンの腕は、まるでそれが当然のことだと言わんばかりに、自然に俺を引き寄せていた。
拒絶の言葉も力も、ことごとく受け流されていく。
けど――今ここで何もしなかったら…
「…なあ。あそこに、まだ誰か残ってるっぽい。さっき子ども抱えて逃げた時……見かけた気がするんだが、確認頼めないか?」
自分でも驚くほど自然に、トオルの口が動いていた。
咄嗟の思いつき。芝居にすらなっていない、ただの思考の逃避――けれど。
「……そうですか」
グリーンがふと視線をそらした。
その一瞬、手にかかっていた力がわずかに緩む。
迷いはなかった。隙を突いて地を蹴り、一直線に駆け出す。
煙の流れ、人の密度、足場の感覚――全部を感覚で読み取りながら、細い道へ飛び込み、柵をひと跳ねで越える。
障害物をものともせず、走り抜けるその動きに無駄はない。
「……っ、こっちだな」
人波をすり抜け、死角へ滑り込み、視界の外へ。
追ってくる気配は――ない。
振り返っても誰もいないことを確認し、建物の影で足を止めて身を潜める。
息は上がっていたが、動きはぶれていなかった。
「……なんであんなヤベぇやつに目ぇつけられてんだよ」
ぼそっと吐き出した独り言は、煙に紛れて消えていった。
ーーーーー
その頃、グリーンは静かにその場を見送っていた。
「……逃げ足、速いですね。トオルさん」
小さくつぶやきながら、さっきまで掴んでいた手を、名残惜しそうに撫でるように握りしめる。
「……本当に、可愛い人です。必死に逃げて、嘘までついて。ああ、もう……たまらない」
ひとりごとのように、やさしく囁く。
「――いつまでも、逃してあげると思わないでくださいね、トオルさん」
その微笑みは、どこまでも穏やかだった。
穏やかで、優しくて、抗えないほど――冷たかった。




