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君のいない春に、海は近すぎた  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一
第四章 11日の午前

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第17話 鳴ったことのない音

 会館の中へ戻る前に、俺は一度だけ肩の位置を直した。


 外の冷たい空気に触れていると、喪服の重さが少しだけましになる気がする。会館の中は暖かいが、暖かいぶんだけ空気が乾いていて、読経や焼香の続く時間の中ではどうしても息が浅くなる。紙袋を片手に持ち直し、玄関のほうへ向かいながら、俺は何となく指先でネクタイの結び目を触った。


 少し曲がっている気もしたが、真帆にまた「たぶん多いな」と言われそうなので、そのままにした。


 駐車場は相変わらず広かった。


 広い、というだけの場所だ。

 車が並んでいて、建物の庇があり、その向こうに道路があって、さらに向こうには見えない海の気配がある。黒い服を着た人たちがぽつぽつと動いているが、騒がしさはない。会館の外にいる人は、皆どこか一時的にここへ出てきているだけの顔をしていた。電話をしている人。煙草を吸っている人。車へ荷物を取りに来た人。俺もその一人にすぎない。


 何も起きていない風景だった。


 いや、正確には、何も起きていないように見える風景だった。


 会館の自動ドアの前まで来たところで、俺はガラス越しに中を見た。暖房のきいたロビーの空気が、透明な壁一枚の向こうにある。誰かが廊下を横切り、別の誰かが紙コップを持って立っている。中へ戻ればまた、あの一定の温度の中で、決まった順番の時間が続くのだろう。今日一日はそういうふうに過ぎていくものだと、そのときの俺はまだ疑っていなかった。


 その瞬間だった。


 ポケットの中で、耳慣れない音が炸裂した。


 反射的に肩が跳ねた。


 普通の着信音ではなかった。メールの受信音でも、アラームでもない。もっと鋭くて、もっと場違いで、もっとこちらの身体の深いところを引っかくような音だった。高い、と言えば高い。けれどただ甲高いだけではなく、金属の板を無理やり震わせたみたいな、逃げ場のない音だ。


 それがポケットの中で鳴っているのに、まるで頭のすぐ横で警報機を鳴らされたみたいに感じた。


「……え?」


 自分で声が漏れたのが分かった。


 同時に、近くにいた何人かの視線がこちらへ向いた。


 電話の着信なら、ここまで人の顔は上がらない。

 けれどその音は、誰の耳にも「普通ではないもの」として届いたらしい。喪服姿の男性が煙草を持つ手を止め、玄関の近くにいた年配の女性が小さく首を傾ける。自動ドアの内側にいた真帆まで、何かに気づいた顔でこちらを見た。


「何、その音」


 真帆の声が、ガラス越しにかすかに聞こえた。


 俺自身も、一瞬、何の音なのか分からなかった。


 いや、正確には「知っているはずなのに、現実の音として聞いたことがない」ものだった。頭のどこかでは機能の存在を知っている。テレビでも見たことがある気がする。緊急地震速報対応。新しい機種だからそういうのも入っている、と、前に真帆へ得意げに話したことすらある。


 けれど、その機能が本当に鳴ることを、俺はほとんど想定していなかった。


 音は止まらない。


 ポケットの中で鳴り続けるその警報が、時間そのものを一度止めたみたいだった。駐車場の広さも、会館の庇も、遠くの道路の流れも、全部そこにあるのに、先に進まない。たった数秒のはずなのに、その数秒だけ空気が妙に濃くなる。


 俺はようやくポケットへ手を入れた。


 指先が少しもつれる。

 ガラケーの角が喪服の裏地に引っかかる。

 焦っているわけではないつもりなのに、手の動きだけが自分の意思より少し速くなっている。


 取り出したガラケーの画面は、すでに赤や黒に近い緊張した色で何かを表示していた。まだ文面までは読み取れていない。それでも、画面が「ただ事ではない」とだけは、はっきり伝えてくる。


「電話?」


 近くにいた親類の一人が言った。

 問いかけというより、確認にもならない独り言みたいな声だった。


 俺は答えなかった。答えられなかった。

 視線が画面へ吸い寄せられる。


 背後では風が少しだけ強く吹いた。

 会館の庇の端が視界の上にある。

 足元のアスファルトは、まだただのアスファルトだ。


 真帆が自動ドアの向こうで、もう一度こちらを見ている。


 その顔も、周囲の人の顔も、まだ何も理解していない顔だった。

 ただ、自分のガラケーだけが、この世界のどこかで先に何かを知ってしまったみたいに鳴っている。


 俺はその場に立ったまま、息を止めるようにして画面を見た。


 そして、その音が“鳴ったことのない音”ではなく、“今すぐ意味を持つ音”へ変わる直前の数秒の中にいた。

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