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君のいない春に、海は近すぎた  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一
第四章 11日の午前

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第16話 駐車場の広さ

 式の流れがひと区切りつくと、身体のほうが先に外の空気を欲しがった。


 会館の中は暖かかったが、その暖かさはずっと同じ温度で肌に触れてくるせいか、長くいると息の置き場がなくなる。線香の匂いも、花の匂いも、暖房の乾いた空気も、どれも強すぎるわけではないのに、少しずつ喉の奥へ溜まっていく。悲しみや緊張のせいだけではなく、たぶん単純に空気が近すぎるのだと思った。


「恒一くん」


 呼ばれて振り返ると、真帆が廊下の向こうから手を上げた。


「これ、車から取ってきてくれる?」

「何」

「紙袋。後ろの席に置きっぱなし」

「今?」

「今。あとででいいって言われると、そのまま忘れんの」

「分かった」


 真帆が車の鍵を渡してくる。

 その手の動きが、今日だけで何度も同じことを繰り返してきた人の手つきだった。


「寒いから早く戻ってきなよ」

「分かってる」


 それだけ言って、俺は出入り口のほうへ向かった。


 自動ドアが開くと、外の空気がまっすぐ胸に入ってきた。


 冷たい。


 けれど、少し楽でもあった。


 暖房に慣れた顔へ、三月の冷たさがそのまま当たる。頬の内側が一瞬できゅっと縮む。息を吸うと、会館の中で鈍っていた輪郭が少しだけ戻る気がした。寒いのに、外へ出たほうが息はしやすい。そういう日だった。


 駐車場は思っていたより広かった。


 通夜のときも、今朝来たときも通っているはずなのに、そのときは車から降りて、そのまま建物へ入っただけだったから、広さそのものを意識しなかったのだろう。こうして一人で外へ出て初めて、アスファルトの面積が目に入る。黒っぽい地面が会館の前に平らに広がり、その上へ何列かに分かれて車が並んでいる。斎場らしく黒や白や銀の車が多く、どれも地味な色なのに、陽のない空の下では妙に輪郭だけがはっきりして見えた。


 建物との距離も、さっきまで思っていたよりある。


 会館の正面玄関から駐車スペースまで、数歩では済まない。車寄せの屋根が途中まで張り出していて、その先は空の下だ。頭上には瓦というほどの和風の屋根ではないが、玄関の庇と看板の出っ張りがあり、それが建物の輪郭を少しだけ大きく見せている。看板は風のたびに揺れるわけではないが、下から見上げると、金具や縁の部分が思いのほか細い作りに見えた。


 俺は鍵を見てナンバーを確かめながら、車列の間を歩いた。


 足音がアスファルトに小さく返る。

 寒さのせいか、周囲の人影は多くない。建物の中へ入っていく人、喫煙所の端に立つ人、電話を耳に当てたまま少し離れた場所へ移る人。そのくらいだ。皆、黒い服を着ているから、遠目には一つの色の影がゆっくり動いているように見える。


 遠くの道路では、車が普通に流れていた。


 特別混んでもいないし、がらんとしているわけでもない。信号に合わせて、止まり、進み、また止まる。何でもない町の、何でもない平日の昼前の流れに見えた。そこだけ切り取れば、今日が特別な日だとは分からないかもしれない。


 鍵に合う車を見つけ、後部座席のドアを開ける。


 中に置かれていた紙袋を取る。中身は香典返しの控えか、会館へ持ち込むための何かの書類か、そのくらいのものだろう。重くはない。片手で持てる。こんな用事なら誰が行っても同じなのだと思うと、少しだけ気が楽だった。


 ドアを閉めたあと、そのまますぐ戻らずに、俺は一度だけその場で立ち止まった。


 広いな、と思った。


 それ以上でも以下でもない感想だった。


 ただの駐車場だ。

 会館の前に必要なだけ広く取られた、平たい場所。

 人を乗せてきた車が止まり、人を乗せて帰る車が待つ場所。

 それだけの空間なのに、建物の中の空気から出てくると、その広さだけが急に身体へ入ってくる。


 広い場所というのは、不思議と人を少し安心させる。

 壁が近くないからか、空がそのまま見えるからか、すぐに外へ動けそうな気がするからかは分からない。とにかく会館の中よりは息がしやすかった。


 ポケットの中で、ガラケーの角が太腿に当たっているのが分かる。


 今日も朝から何度か時間を確認した。

 真帆に「まだ充電ある?」と訊かれて、「あるよ」と答えた。

 ただそれだけの、いつも通りの持ち物だ。折りたたみ式の、当時としては少し新しい機種。テレビも見られて、緊急地震速報にも対応している。そういう機能の名前は知っていても、それがこの先の数秒を左右するなんて、このときの俺は少しも考えていなかった。


 空を見上げると、相変わらず低い灰色だった。


 晴れない。

 雪も降らない。

 ただ、薄い雲が天井みたいに張っている。


 風はさっきより少しだけ強くなっている気がした。会館の建物の角を回ってくる風が、黒い上着の裾を軽く押す。襟元から入る冷たさに、首の後ろがすうっとする。


 誰かが建物の出入り口の近くでくしゃみをした。

 別の誰かが、紙コップのコーヒーを片手に立っている。

 玄関の自動ドアは、誰かが近づくたび一定の速度で開き、一定の速度で閉じる。


 どこにも異常はない。


 異常はないのに、世界全体が少しだけ張りつめて見える瞬間がある。

 それは不安とは少し違う。

 たぶん、寒さと、喪服の重さと、午前中ずっと告別式の空気の中にいたことの反動だろう。外へ出て息がつけたぶんだけ、逆に周囲の線が細く鋭く見える。


 俺は紙袋を持ち直し、会館のほうへ歩き出した。


 玄関までの数歩のあいだ、建物との距離、車の並び、頭上の庇の位置、風の通り方が、妙に身体へ入ってきた。自分でも理由は分からない。ただ、そういうものを何となく覚えておこうとする癖が、知らない場所に来ると少し強くなるだけだ。


 出入り口の前で一度だけ振り返る。


 駐車場はやはり広かった。

 その向こうに道路があり、町の流れがあり、さらにその向こうに、今は見えない海の気配がある。


 俺はその場に、まだ何も知らずに立っていた。

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