第15話 昼前の雑談
告別式の場には、妙に長い「合間」がある。
読経や焼香の時間はきちんと進んでいるのに、その前後や途中の待ち時間だけが、時間から少しはみ出したみたいに長く感じる。何もしていないわけではない。座って、待って、呼ばれたら立って、また座る。ただその繰り返しの中で、ふと手持ち無沙汰になる瞬間がある。
その昼前の控室も、そういう空気だった。
式場の隣にある待合の部屋には、親類たちが少しずつ戻ってきていた。椅子に腰を下ろす者、立ったまま湯呑みを受け取る者、窓際へ寄って外を見る者。誰も大きな声では話さないが、完全な沈黙でもない。喪の場の緊張が少しだけ緩み、けれどまだ日常には戻りきらない、そんな中途半端な時間だった。
暖房は効いているはずなのに、部屋の隅には冷えが残っていた。
人の出入りで開くドアのたびに、外の空気が細く入り込み、黒い服の裾を少しだけ揺らす。ストーブのある親類宅とは違い、斎場の暖かさはどこか乾いていて、ずっと同じ温度のまま人を包む。だからかえって、外の寒さが近く感じられた。
「今日は寒いねえ」
親類の誰かが、窓の外を見ながら言った。
「雪、もうやんだのかね」
「さっきは降ってなかったべ」
「でも空、まだどんよりだない」
「三月って、こんな寒かったっけ」
その言葉に、俺は少しだけ顔を上げた。
第1話で自分も同じことを思った気がする。
窓の外は灰色だった。
朝からずっと低いままの空。雪は見えないが、晴れる気配もない。駐車場には黒や銀の車が並んでいて、その向こうの道路には、特別混んでいるわけでもない車の流れがある。どこにでもある、三月の寒い日。少なくとも見た目は、そんなふうにしか見えなかった。
「鹿嶋まで今日ならどんくらい?」
年上の親類の男性が、何となく俺に訊いた。
「混んでなければそんなでもないです」
「そんなでも、ってどんくらいよ」
「道にもよりますけど……まあ、普通ならそこまで」
「普通なら、ねえ」
その「普通なら」が、今は別に特別な言葉でもなく、そのまま会話の中へ溶けていった。
「今日終わったら、やっとひと息つくね」
女性の一人がそう言って、湯呑みに口をつける。
「ほんとだよ」
「これで少し落ち着くっぺ」
「落ち着くといいけどねえ」
「少なくとも昨日今日よりは」
終わったら、ひと息つく。
これで少し、落ち着く。
その言葉は、そのときの俺にはごく普通のものとして聞こえた。
通夜があり、告別式があり、親類が集まり、帰る人が帰っていく。そういう波が今日でひとつ引いて、家も少し静かになるのだろう。それはたしかに、誰が考えても自然な見通しだった。
俺自身も、同じように思っていた。
今日は長いな。
でも、終わったら帰るだけだ。
そういう日として、この時間を受け取っていた。
真帆が向かいの椅子へ腰を下ろした。
さっきまで会場の中にいたせいか、顔が少し強張って見える。疲れているのだと思う。喪の場では、何もしていないようでいて、顔の筋肉だけが妙に働く。
「そのガラケー、まだ充電ある?」
真帆が俺の手元を見て言った。
いつの間にか俺は、ポケットからガラケーを出して時間を見ていた。
時刻を確認しただけのつもりだったが、画面がついたまま少し長く持っていたらしい。
「あるよ」
「じゃあ、またテレビとか見てんの?」
「見るけど」
「意外とまじめ」
「どういう意味だよ」
「いや、なんかそういうのちゃんと見るタイプっぽくない」
「失礼だな」
「だって、もっと適当そう」
「お前、俺のこと何だと思ってんだよ」
「親類の集まりで微妙に所在なさそうにしてる人」
「それは否定できない」
真帆が少しだけ笑った。
俺もつられて口元が緩んだ。
そういう、何でもない会話だった。
ガラケーの充電があるとか、テレビを見るとか、そういう話。
大した意味はない。
このあと何かが起きる伏線だなんて、当然その場の誰も思っていない。俺にとっても、ただ手持ち無沙汰な時間につい携帯を開いただけのことだった。
親類の一人が、隅のテーブルの上の紙コップを見て言う。
「お茶、もう一本開ける?」
「いや、これで足りっぺ」
「帰るころまで持つかな」
「足りなきゃ途中で買えばいいない」
「だねえ」
別の人は、明日以降の話をしていた。
「月曜から学校どうなんだべね」
「休みのとこ多いって言ってたよ」
「へえ」
「でも仕事はそうもいがねえしなあ」
「うちは明日から普通だって」
「大変だない」
明日。
月曜。
そういう言葉も、この部屋では普通に使われていた。
人は、大きな出来事の直前でも驚くほど何でもない話をしている。
そしてその何でもなさは、その場にいると本当に何でもない。後から思い返して初めて、こんな話をしていたのかと胸が詰まるだけだ。
そのときの俺には、まだ分からない。
ただ、会場の外の低い空と、乾いた暖房と、親類たちの疲れた声があって、その中で「終わったら帰る」「少し落ち着く」「鹿嶋までどれくらい」という話が普通に交わされているだけだった。
俺はもう一度ガラケーを見た。
時間。
電波。
充電残量。
どれも問題ない。
折りたたみを閉じると、ぱちん、と小さな音がして、それだけで少し時間が区切られた気がした。
「終わったら、恒一くんもすぐ帰るの?」
真帆が訊く。
「たぶん」
「またたぶん」
「いや、でも帰るだけだし」
「ふうん」
「何」
「別に」
真帆はそう言って、紙コップのお茶をひと口飲んだ。
帰るだけ。
その言葉を、自分でも軽く思った。
今日は告別式の日で、長くて、少し疲れて、終わったら帰る。
それ以上でも以下でもない一日。
少なくとも、そういう予定の上に皆が座っている。
控室の外で、司会の声が少し遠くに聞こえた。
次の流れを告げるような、抑えた声。
部屋の中の親類たちは、それを聞くと少しだけ姿勢を正す。湯呑みを置き、上着の前を整え、黒い服の皺を手で払う。
また、予定通りに動く時間が来る。
俺も立ち上がりながら、何とはなしに窓の外を見た。
駐車場の向こうの道路。
低い空。
止まっていない町の流れ。
何でもない風景だった。
だからこそ、その何でもなさが、その後ずっと胸に残ることになるのだと、今なら分かる。
だがそのときの俺は、本当に何も知らなかった。
ただ、今日は長いな、と思い、終わったら帰るだけだと、疑いなく考えていた。




