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君のいない春に、海は近すぎた  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一
第四章 11日の午前

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第15話 昼前の雑談

 告別式の場には、妙に長い「合間」がある。


 読経や焼香の時間はきちんと進んでいるのに、その前後や途中の待ち時間だけが、時間から少しはみ出したみたいに長く感じる。何もしていないわけではない。座って、待って、呼ばれたら立って、また座る。ただその繰り返しの中で、ふと手持ち無沙汰になる瞬間がある。


 その昼前の控室も、そういう空気だった。


 式場の隣にある待合の部屋には、親類たちが少しずつ戻ってきていた。椅子に腰を下ろす者、立ったまま湯呑みを受け取る者、窓際へ寄って外を見る者。誰も大きな声では話さないが、完全な沈黙でもない。喪の場の緊張が少しだけ緩み、けれどまだ日常には戻りきらない、そんな中途半端な時間だった。


 暖房は効いているはずなのに、部屋の隅には冷えが残っていた。

 人の出入りで開くドアのたびに、外の空気が細く入り込み、黒い服の裾を少しだけ揺らす。ストーブのある親類宅とは違い、斎場の暖かさはどこか乾いていて、ずっと同じ温度のまま人を包む。だからかえって、外の寒さが近く感じられた。


「今日は寒いねえ」

 親類の誰かが、窓の外を見ながら言った。

「雪、もうやんだのかね」

「さっきは降ってなかったべ」

「でも空、まだどんよりだない」

「三月って、こんな寒かったっけ」


 その言葉に、俺は少しだけ顔を上げた。

 第1話で自分も同じことを思った気がする。


 窓の外は灰色だった。

 朝からずっと低いままの空。雪は見えないが、晴れる気配もない。駐車場には黒や銀の車が並んでいて、その向こうの道路には、特別混んでいるわけでもない車の流れがある。どこにでもある、三月の寒い日。少なくとも見た目は、そんなふうにしか見えなかった。


「鹿嶋まで今日ならどんくらい?」

 年上の親類の男性が、何となく俺に訊いた。

「混んでなければそんなでもないです」

「そんなでも、ってどんくらいよ」

「道にもよりますけど……まあ、普通ならそこまで」

「普通なら、ねえ」


 その「普通なら」が、今は別に特別な言葉でもなく、そのまま会話の中へ溶けていった。


「今日終わったら、やっとひと息つくね」

 女性の一人がそう言って、湯呑みに口をつける。

「ほんとだよ」

「これで少し落ち着くっぺ」

「落ち着くといいけどねえ」

「少なくとも昨日今日よりは」


 終わったら、ひと息つく。

 これで少し、落ち着く。


 その言葉は、そのときの俺にはごく普通のものとして聞こえた。

 通夜があり、告別式があり、親類が集まり、帰る人が帰っていく。そういう波が今日でひとつ引いて、家も少し静かになるのだろう。それはたしかに、誰が考えても自然な見通しだった。


 俺自身も、同じように思っていた。


 今日は長いな。

 でも、終わったら帰るだけだ。


 そういう日として、この時間を受け取っていた。


 真帆が向かいの椅子へ腰を下ろした。

 さっきまで会場の中にいたせいか、顔が少し強張って見える。疲れているのだと思う。喪の場では、何もしていないようでいて、顔の筋肉だけが妙に働く。


「そのガラケー、まだ充電ある?」

 真帆が俺の手元を見て言った。


 いつの間にか俺は、ポケットからガラケーを出して時間を見ていた。

 時刻を確認しただけのつもりだったが、画面がついたまま少し長く持っていたらしい。


「あるよ」

「じゃあ、またテレビとか見てんの?」

「見るけど」

「意外とまじめ」

「どういう意味だよ」

「いや、なんかそういうのちゃんと見るタイプっぽくない」

「失礼だな」

「だって、もっと適当そう」

「お前、俺のこと何だと思ってんだよ」

「親類の集まりで微妙に所在なさそうにしてる人」

「それは否定できない」


 真帆が少しだけ笑った。

 俺もつられて口元が緩んだ。


 そういう、何でもない会話だった。


 ガラケーの充電があるとか、テレビを見るとか、そういう話。

 大した意味はない。

 このあと何かが起きる伏線だなんて、当然その場の誰も思っていない。俺にとっても、ただ手持ち無沙汰な時間につい携帯を開いただけのことだった。


 親類の一人が、隅のテーブルの上の紙コップを見て言う。


「お茶、もう一本開ける?」

「いや、これで足りっぺ」

「帰るころまで持つかな」

「足りなきゃ途中で買えばいいない」

「だねえ」


 別の人は、明日以降の話をしていた。


「月曜から学校どうなんだべね」

「休みのとこ多いって言ってたよ」

「へえ」

「でも仕事はそうもいがねえしなあ」

「うちは明日から普通だって」

「大変だない」


 明日。

 月曜。

 そういう言葉も、この部屋では普通に使われていた。


 人は、大きな出来事の直前でも驚くほど何でもない話をしている。

 そしてその何でもなさは、その場にいると本当に何でもない。後から思い返して初めて、こんな話をしていたのかと胸が詰まるだけだ。


 そのときの俺には、まだ分からない。


 ただ、会場の外の低い空と、乾いた暖房と、親類たちの疲れた声があって、その中で「終わったら帰る」「少し落ち着く」「鹿嶋までどれくらい」という話が普通に交わされているだけだった。


 俺はもう一度ガラケーを見た。


 時間。

 電波。

 充電残量。


 どれも問題ない。

 折りたたみを閉じると、ぱちん、と小さな音がして、それだけで少し時間が区切られた気がした。


「終わったら、恒一くんもすぐ帰るの?」

 真帆が訊く。

「たぶん」

「またたぶん」

「いや、でも帰るだけだし」

「ふうん」

「何」

「別に」


 真帆はそう言って、紙コップのお茶をひと口飲んだ。


 帰るだけ。

 その言葉を、自分でも軽く思った。


 今日は告別式の日で、長くて、少し疲れて、終わったら帰る。

 それ以上でも以下でもない一日。

 少なくとも、そういう予定の上に皆が座っている。


 控室の外で、司会の声が少し遠くに聞こえた。

 次の流れを告げるような、抑えた声。

 部屋の中の親類たちは、それを聞くと少しだけ姿勢を正す。湯呑みを置き、上着の前を整え、黒い服の皺を手で払う。


 また、予定通りに動く時間が来る。


 俺も立ち上がりながら、何とはなしに窓の外を見た。

 駐車場の向こうの道路。

 低い空。

 止まっていない町の流れ。


 何でもない風景だった。

 だからこそ、その何でもなさが、その後ずっと胸に残ることになるのだと、今なら分かる。


 だがそのときの俺は、本当に何も知らなかった。

 ただ、今日は長いな、と思い、終わったら帰るだけだと、疑いなく考えていた。

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