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君のいない春に、海は近すぎた  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一
第四章 11日の午前

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第14話 形式と沈黙

家を出るとき、誰も「行こう」とはっきり言わなかった。


 時間になったから動く。

 喪服を着て、数珠を持って、玄関に集まった人間から順に靴を履く。

 そういう流れが先にあって、その中に各自の身体が自然と収まっていく。誰かが声を張らなくても、予定というものは人を動かすのだと、その朝の玄関先を見ていると思う。


 外はまだ冷たかった。

 雪はない。けれど空気は昨日の延長みたいに低く、風は薄く頬を刺した。門の外に停まった車の窓は少し曇っていて、誰かが手の甲でその一部を拭っていた。


 俺は真帆のあとに続いて車へ乗り込んだ。

 座席は少し冷えていて、喪服の上からでもその冷たさが分かる。ドアが閉まると、車の中だけ別の密度の空気になる。外の風の音は遠くなり、その代わりにシートの軋みや、エンジンの小さな振動や、誰かの息づかいが近くなる。


 車の中の会話は少なかった。


 まったくないわけではない。

 「数珠持った?」「香典袋そっちだっけ」「斎場、今日は混むかな」

 そんな確認の言葉は交わされる。けれど、それ以上には広がらない。大人たちは皆、疲れているのだと思う。昨日から人の出入りが続き、通夜があり、今朝も早くから動いている。その疲れが、会話の量を自然に減らしていた。


 俺もほとんど喋らなかった。

 窓の外を見ながら、流れていく泉町の道をぼんやり追う。


 見覚えが出てきた道もある。

 昨日真帆と歩いた通り。コンビニのある角。少し広い道へ出るところ。

 けれど今は、その一つひとつを覚えようとは思わなかった。車は告別式の場へ向かっていて、俺はその流れに乗っているだけだ。目的地が決まっているとき、人は途中の道にまで神経を使わずに済む。


 斎場へ着くと、通夜のときよりも空気が乾いて感じられた。


 建物の外観も、駐車場の広さも、別に特別なものではない。地方の斎場として見れば、どこにでもありそうな造りだったと思う。けれど、その日その場にいた俺にとっては、そこはただ「今日、告別式が行われる場所」だった。建物そのものの印象より、そこへ向かって歩く人々の黒い服の列のほうが強く目に残る。


 自動ドアを抜けると、暖房の乾いた空気が頬に当たった。

 家の中の暖かさとは違う。人の生活に温められた熱ではなく、機械が一定に保っている熱だ。少し喉が渇く感じのする暖かさだった。


 会場へ入るまでの待合の空間で、親類たちは小さく散った。

 受付の確認をする人。

 花のことを気にする人。

 何もせず座っている人。

 泣いているわけでもなく、笑っているわけでもなく、ただ疲れている人。


 俺はそのどこにも完全には属していなかった。


 喪の中心にいるのは、もっと近い家族たちだ。

 亡くなった人の子や配偶者、長く一緒に暮らしてきた人。

 俺はその外縁にいる。親類としてそこにいて、手を合わせる資格はあるが、悲しみの深さを自分のものとして前に出すほどでもない。その立ち位置の曖昧さが、こういう場ではかえって動きやすさにもなった。


「恒一くん、こっち」

 誰かに小さく呼ばれる。

「はい」

「そこ座ってて」

「はい」


 それだけで、自分の位置が決まる。


 席も、立つ場所も、焼香の順番も、誰かが何となく決めてくれる。

 俺はそれに従って動く。

 従うことに、特に抵抗もない。こういう場では、自分の判断よりも流れに沿うことのほうが正しい気がする。


 式が始まると、世界はさらに細い動きだけでできていく。


 司会の声。

 僧侶の読経。

 名前が呼ばれる調子。

 焼香の列が立つ気配。

 椅子のきしむ音。

 黒い服同士が擦れ合う音。

 誰かの鼻をすする音。


 俺は、そういう音ばかりをよく覚えている。


 悲しんでいないわけではない。

 ただ、自分の感情より先に手順のほうが目に入ってしまうのだ。


 立つ。

 歩く。

 焼香台の前で止まる。

 香をつまむ。

 額へ近づける。

 落とす。

 礼をする。

 戻る。


 その一連の動きを間違えないようにすることのほうに意識が向いてしまう。数珠を持つ指の位置や、どの角度で頭を下げるかや、席へ戻るときに裾を踏まないようにすること。そんな細かいことばかりが、やけにはっきりする。


 そのことに、わずかに罪悪感があった。


 もっとちゃんと悲しむべきなのではないか。

 人が亡くなっているのに、こんなふうに手順ばかり追っていていいのか。


 けれど、その薄い罪悪感さえ、式の流れの中ではすぐに次の動きへ押し流される。自分の感情に深く潜るより先に、また司会の声があり、読経があり、次の立ち座りがある。


 周囲を見れば、悲しみ方も一つではなかった。


 前の席で肩を落としている女性がいる。

 涙を拭っている人もいる。

 逆に、表情がほとんど動かず、疲れだけが顔に出ている人もいる。

 手元ばかり見ている人。

 まっすぐ前を向いている人。

 泣いていないから悲しくないわけではないし、泣いているから一番近いとも限らない。喪の場では、それぞれの悲しみ方が勝手に並んでいる。


 俺はそのどれにもなりきれず、少し離れたところから全部を見ていた。


 暖房の乾いた空気が、喉の奥へじわじわ溜まっていく。

 黒い上着は着ているだけで少し重い。

 ネクタイは喉元を軽く締めつけたままで、時間がたつほど窮屈に感じられる。


 それでも式は滞りなく進んでいった。


 滞りなく、というのは便利な言葉だと思う。

 実際には人は皆少しずつ疲れていて、悲しみ方にも温度差があり、誰かの香典袋の位置がずれ、誰かの数珠が少し絡まり、椅子は時々不格好に軋む。けれど外から見れば、その全部は「滞りなく」の一言でまとめられてしまう。


 壊れそうな日でも、人はまず形式に従って動く。


 いや、壊れそうな日だからこそ、形式にしがみつくのかもしれない。

 順番があり、手順があり、言うべき言葉が決まっている場では、人は自分の中の揺れをいったん横に置ける。置いておかないと、前へ進めない。


 その意味で、告別式というのは妙に強い仕組みなのだと思う。


 読経が続くあいだ、俺は一度だけ会場の空気を大きく吸い込んだ。


 線香。

 花。

 暖房。

 黒い服の布の匂い。

 それらが混ざって、外とは別の世界を作っている。


 ここで今日が終わる。

 少なくとも、そう思っていた。


 告別式が終われば、あとは少し親類の家へ戻るか、あるいはそのままどこかで昼になるか。どちらにせよ、「予定された一日」はそのまま進み、俺は鹿嶋へ帰るだけだ。


 その見通しは、まだ普通にそこにあった。


 会場の隅で、誰かが咳払いをした。

 僧侶の声は変わらず続いている。

 司会の落ち着いた声が、その合間を埋める。


 俺はその全部を、どこか現実感の薄いまま聞いていた。


 薄いということは、たぶん悪いことではない。

 こういう場では、感情が強すぎると逆に何も見えなくなるのかもしれない。俺は喪の中心ではないからこそ、その薄さのまま、椅子のきしみや服の擦れる音や、誰かのすすり泣きと暖房の乾いた空気を、妙に細かく覚えていられたのだと思う。


 式はまだ続く。

 秩序はまだ壊れていない。

 この日もまた、普通に終わる日として進んでいるように見えた。

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