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君のいない春に、海は近すぎた  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一
第四章 11日の午前

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第13話 喪服の朝

 3月11日の朝は、少し重たかった。


 目を開けた瞬間にそう思ったのは、たぶん眠りが浅かったせいだ。完全に眠れなかったわけではない。夜のあいだに小さな余震で目を覚ました記憶もあるし、そのたびにまた眠った記憶もある。けれど、朝になって身体を起こしたとき、肩から背中にかけて、薄い布がもう一枚かぶさっているみたいな鈍さが残っていた。


 それでも朝は来る。

 それも、昨日と同じように何事もない顔で来る。


 見知らぬ家の天井は、もう完全に見知らぬわけではなくなっていた。木目の流れも、照明の紐の位置も、障子越しに入ってくる光の薄さも、二泊目の朝には少しだけ目に馴染んでいる。知らない家に慣れるというのは、安心に近づくことではなく、違和感の輪郭が少しぼやけることなのかもしれなかった。


 俺は布団の上でしばらくぼんやりしてから、ようやく起き上がった。


 家の中では、もう朝の音が動いている。

 台所で包丁がまな板へ当たる音。

 流しで水が流れる音。

 湯呑みを重ねる音。

 小さな話し声。


 通夜の翌朝よりも、今日は少しだけ音の種類が多かった。今日は告別式の日で、家の動きそのものに目的があるからだろう。昨日までは、来る人を迎え、話し、送り出すための動きだった。今日はそこに、「時間までに出る」「持っていくものを確認する」「服を整える」という、もっとはっきりした流れが加わっている。


 布団を軽く整えてから居間を出ると、足元の畳はひやりとしていた。

 昨日と同じ冷たさのはずなのに、今日はそれをいちいち驚きもせずに受け入れている。慣れとは便利だが、少し怖くもある。


 洗面所の水は、朝らしい容赦のなさで冷たかった。


 手のひらに受けた瞬間、指先から肘まで一気に目が覚める。顔を洗うと、まぶたの裏に残っていた眠気も少しずつ薄くなっていく。鏡の中の自分は、昨日より目の下が少し重い気がした。疲れているのか、喪服に着替える前の顔というのはみんな似たように見えるのか、自分でもよく分からない。


 タオルで顔を拭きながら、俺は今日の流れを頭の中でなぞった。


 告別式。

 焼香。

 たぶんそのあと、少し親類の家へ戻るか、戻らないか。

 どちらにせよ、今日が終われば鹿嶋へ帰る。


 そこまで考えて、特に不安はなかった。

 眠りが浅かったぶん、少し身体は重い。けれど、それはただの疲れだと思えた。今日は予定をこなす日で、終われば帰る日だ。その見通しが、朝のうちはまだ素直に信じられた。


 居間へ戻ると、黒い服がきれいに畳まれて置かれていた。


「恒一くん、それ着るんでしょ」

 真帆が言った。

「うん」

「シワ、大丈夫?」

「たぶん」

「たぶん多いな」


 そう言われて、少しだけ笑う。


 ワイシャツを持ち上げると、布地がまだ朝の冷たさを残していた。袖を通した瞬間、肩のあたりが一瞬だけ身を縮める。黒いズボンも、上着も、普段着る服より少しだけ重く感じた。服そのものの重さというより、今日一日をその服の中で過ごすことの重さかもしれない。


 ネクタイを締めるのに手間取っていると、真帆が横から覗き込んできた。


「ネクタイそれでいいの?」

「たぶん」

「またたぶん」

「じゃあ見てくれよ」

「え、やだ。自分でやって」

「今言っただろ」

「言ったけど、直すとは言ってない」

「雑だな」

「雑じゃなくて、そこ逆」

「うそ」

「うそじゃないって」


 結局、真帆は呆れた顔で少しだけ手を出した。

 指先で結び目の位置を直し、襟元を整える。


「ほら」

「ありがとう」

「いいけど。恒一くん、そういうの自信なさすぎ」

「普段しないし」

「まあ、そうか」


 その何でもないやりとりが、妙に今朝の空気に合っていた。


 喪服を着る朝なのに、完全に張りつめているわけではない。

 緊張はある。

 疲れもある。

 でも、人はそういう朝にも小さな会話をするし、ネクタイの曲がり具合で少し笑う。


 台所ではすでに弁当らしきものを包む音がしていた。

 親類の女性たちが、持っていくものの確認をしている。


「数珠、そっち置いた?」

「香典袋は?」

「お茶、車に積んどく?」

「ハンカチ持ったない?」

「これ誰の上着?」


 そういう声が次々に飛ぶ。

 昨日までの「人を迎える家」から、「出る家」へ切り替わっていく感じがあった。


 母がいないのは、やっぱり少し不思議だった。

 昨日の朝まではこの家の台所に混じっていた声が、今朝はどこにもない。その代わり、親類たちの声の中に自分の役割だけが少し曖昧に浮いている。手伝うべきなのか、黙っていていいのか、そこだけがまだ決まりきらない。


「恒一くん、朝ごはん食べる?」

 真帆の母親が言った。

「少しでいいなら」

「少しでいいならって、ちゃんと食べなさい」

「式、長いんだから」

「はい」


 言われるまま座ると、茶碗と味噌汁が前に置かれた。

 焼き魚の皿、小鉢の漬物、煮物の残り。昨日の朝と大きく変わらない並びなのに、今日のほうがすこし急いだ食卓に見える。皆、食べながらも次のことを考えている顔をしている。


 テレビはついていたが、音量は低かった。

 朝の情報番組の声が、居間の会話の邪魔にならない程度に流れている。昨日の地震のこともまだ画面のどこかに残っていたかもしれないが、少なくとも今の俺にとってそれは前面ではなかった。


 今日は告別式の日だ。


 それが、この朝の中心だった。


「今日終わればひと段落だない」

 年長の親類が、味噌汁の湯気の向こうで言った。


 俺はその言葉に小さく頷いた。


 ひと段落。

 たしかにそうなのだろう。

 もちろん、亡くなった人が戻るわけではないし、家族の悲しみが終わるわけでもない。けれど、通夜と告別式という、外から見える大きな区切りは今日でひとつ終わる。そのことを、皆同じように思っているのだと、その言葉で分かった。


「終わったら少しは楽になるっぺ」

「だといいけどねえ」

「天気も持つといいない」

「ほんとだよ」


 誰かがそう言って、居間の何人かが窓のほうを見た。


 外の空は、昨日の延長みたいに低かった。

 晴れているとは言えない、けれど雪が降っているわけでもない。灰色の薄い膜が空全体に張っていて、朝なのに昼前みたいな色をしている。寒さもまだ残っていた。春というより、冬が少しだけ退ききれずに居座っている朝だった。


 その空の下で、俺たちは喪服を着て、時間を見て、持ち物を確かめている。


 後から思えば、その朝は奇妙なくらい普通だった。


 少し疲れていて、少し寒くて、少しだけ居心地が悪い。

 でもそれは、知らない親類の家で告別式の朝を迎えた高校生としては、ごく自然な範囲の感覚だった。

 まだ災厄の気配は、物語の前面に出ていない。

 少なくとも俺の中では、今日という日は地震の日ではなく、完全に「告別式の日」でしかなかった。


 茶碗を持ち上げながら、俺はもう一度だけ思う。


 今日が終われば帰る。

 鹿嶋へ。

 自分の家へ。

 この少し変わった数日間も、そこでひとまず終わる。


 その見通しがある限り、人は朝をちゃんと朝として受け取れるのだと思う。


 俺は味噌汁を飲み、焼き魚をほぐし、ネクタイの結び目をもう一度だけ指で確かめた。

 黒い上着の重みはまだ少し肩に馴染んでいない。

 でも、それもすぐ今日の一部になるのだろうと思った。

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