届いた手
広い廊下に私の足音と、背後で戦う音が響く。
その音が響くたびに、私の足は竦み、止まりそうになる。
それでも、奥歯を噛み締めて走り続ける。
頬を伝う熱いもの。
それを腕で拭いながら、私は進む。
徐々に小さくなっていく戦いの音。
それと同時に近づいてくるエントランス。
私は息を切らせながら、エレベーターの前に辿り着き、操作ボタンを押す。
だが、操作ボタンは点灯しない。
階表示を示す上部のランプも、点灯していない。
「なんで……!」
何度も何度もボタンを押すが、エレベーターは沈黙したままだった。
もしかしてと思い、ポケットから白いカードを取り出し操作パネル付近にかざすが、やはり反応しない。
「そんな───」
私は茫然と、開かないエレベーターの扉を見上げる。
そんな私を追い立てるように、ドンッと背後で響く大きな音。
思わず首をすくめ、振り返る。
そこには、血塗れになったヒーローが、壁に叩きつけられていた。
追い打ちをかけるために迫る、マリオネット。
ゆっくりと腕が振り上げられる。
「ヒーロー!」
すんでのところで振り下ろされた腕を躱し、マリオネットから距離をとる。
「なにをしている! 早く逃げろ!」
「だって、エレベーターが動かない!」
マリオネットを警戒しながら、視線だけ私に向ける。
「横の扉だ! 非常階段になっている───!」
再び襲い掛かるマリオネットと組み合いながら、ヒーローは叫ぶ。
言われた通り、エレベーター近くにある扉を開けた。
上に向かう階段だけの、狭く息苦しさを感じる空間。
思わず振り返ってしまう。
ヒーローと視線がぶつかる。
その瞳は悔しそうに揺らいでいた。
最後まで、守り切れないことが悔しいのか。
倒し切れないことが悔しいのか。
私には、分からなかった。
だけど、その瞳の奥に灯る決意のようなものは、確かにそこにあった。
「俺が抑えてるうちに、行け!」
ヒーローの言葉に、躊躇しながらも階段へと走った。
背後で閉まる扉。
私は我慢できず、振り返ってしまう。
その閉まる扉の隙間から、ヒーローの背中が見えた。
広く、大きく感じるその背中。
マリオネットと戦うその顔は、悲壮でも、苦痛でもない。
初めて出会った時と同じ獰猛な笑みを浮かべ、満足そうに見える。
───それでいい。
扉が閉まる音と共に、聞こえるはずのないヒーローの呟きが聞こえたような気がした。
何段、何階、上ったのだろうか。
足は震え、息は荒く、手すりに縋るように階段を上っていく。
現在の階数表示もなく、変わり映えもない空間。
それが、果てしない、永遠の回廊のように思えた。
「喜伊さん、ヒーロー、レッドキャップ……」
無意識のように呟く三人の名前。
霞む視界。
震える足はついに、止まってしまった。
手すりに身を預け、荒く息をする。
ヒーローは無事だろうか。
喜伊さんも大丈夫かな。
レッドキャップは、ちゃんと帰ってくるのかな。
思い浮かぶのは三人の顔。
マリオネット……。
そして、ペールブルーのドレスを身に纏った無垢な存在。
それが私の萎えそうな心に、再び灯火を宿らせる。
ふと、遠くで微かに聞こえる音。
その音は階下から。
ガンッ、ガンッ、ガンッと重い物が床を叩く音。
それは徐々に近づいてくる。
───マリオネットだ。
マリオネットが来たということは、ヒーローは───。
辿り着いた答えに、絶望する。
最悪の展開に思わず首を振った。
震える足に力を込めて。
階段を上っていく。
思い通りに動かない足を必死に動かす。
空気を求め、荒い息をする口。
徐々に近づいてくる、無垢で無慈悲な足音。
永遠と思えた、空間。
その時。
私の目の前に、待ち望んだ扉が現れた。
倒れ込むようにドアノブを掴む。
硬く重い扉を、必死で押す。
前のめりになりながら飛び出した場所。
そこは最初に来たビルの入口だった。
よろよろと、出口に向かって進む。
もう、出口は目の前だ。
きっと外に出れば喜伊さんが迎えに来てくれるはずだ。
そんな確信にも似た思いを胸に、出口へと向かう。
背後から響く、扉が開く音。
所々が破れたペールブルーのドレス。
顔に飛び散った血を拭うことなく。
赤黒く染まった手を、だらりと垂らして。
マリオネットは現れた。
ガラス玉のような冷たい瞳が、私を見つめる。
その顔は、もう私の知っているマリオネットの顔ではなかった。
その表情が、その視線が恐ろしく、自然と足は出口へと向かう。
そこへ逃げようとする足が、止まった。
───逃げる?
心臓が大きく脈動する。
思わず胸を握り締めた。
ほんの少しだけ、目をつむる。
私を守ってくれた人達に、懺悔をするように。
───喜伊さん、父さん、ごめんね。
踏みとどまった足は踵を返し、マリオネットへと振り返る。
ゆっくりと、一歩一歩進むその足の速度は変わらない。
私相手には、走る必要がないと判断したんだろうか。
「ねぇ、マリオネット」
私の問いかけに、マリオネットは反応を示さない。
「あなたは、それでいいの?」
歩む足は止まることなく。
「あなたのしたいことはなに?」
血に濡れた手を私へと向けながら。
「私に教えて、あなたが本当に望むことを」
私も、マリオネットへと手を伸ばす。
あの時と同じように。
それが届くと、何かが変わると信じて。
「命令じゃなくて、あなたの気持ちで立ち上がって───!」
それでもマリオネットは揺らがない。
もう、伸ばした手が触れ合うほど近い。
「マリオネット……」
私の伸ばした手に触れることなく、マリオネットは私の目の前に立った。
マリオネットの冷たい手が、私の胸に当たる。
その手にほんの少し、力を込めるだけで私は───。
「───ごめんね」
その言葉がなにを意味するのか、私にもわからなかった。
だけど、マリオネットの表情が。
冷たい瞳が。
その言葉を、私から吐き出させた。
ぽろりと目から涙がこぼれる。
怖いからではない。
私は、悲しいんだ。
マリオネットに、こんな無垢な存在に。
ぬくもりのない命令で、私の命を奪わせてしまうことに。
私は目をつむり、最期の時を待った。
ほんの数秒にも満たない、無言の世界。
徐々にマリオネットの手に力が込められていく。
その永遠にも感じる世界。
「……しらせ あかり」
マリオネットの口から漏れた私の名前。
思わず目を開け、マリオネットを見つめる。
私の胸に手を当てたまま。
揺らぎだした、その瞳。
私は胸に当てられた手に、自分の手を重ねようとして───。
「マリオネット───っ!」
突如地響きが私を襲う。
立っていられないほどの振動。
天井からは細かな瓦礫が落ちてくる。
私は立っていられず、尻もちをついた。
激しく突き上げるような衝撃がもう一度。
「なにが……」
再び天井を見上げた時、私の上に落ちてくる大きな瓦礫。
悲鳴を上げながら、思わず目をつむる。
激しい衝撃が私を襲う。
硬く冷たい何かに包まれるような感覚を最後に、私の意識は闇へと沈んでいった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
逃げるのではなく、マリオネットの心に触れることを望んだ灯。
短い時間の中で、少しずつ強くなり、手を差し伸べられる側から、差し伸べる側へと成長していきました。
その想いを胸に、やっと届いた手。
だけど、その感触を感じる間もなく、悪意は灯へと降り注いでいきます。
今後の展開を楽しみにして、読んでいただければ幸いです。




