言葉はいらない
視界の端で、黒い影が見えた気がした。
微かな違和感に、笑い声が止まる。
窓から外を覗き込む。
しかし、辺りに異常は見受けられない。
───気のせいか。
少し興奮しすぎたのかもしれない。
自嘲気味に首を振りながら、座席に深く身を預ける。
ふと、バックミラーに何かが映った。
白いシャツ、黒いエプロンを身に纏った───。
弾かれたように、後ろを振り向く。
だが、そこには何もいない。
車の後部と、流れる景色が映るのみ。
心臓は痛いほど脈動している。
私が支部に配属されるより前に、長く所属していた女。
支部でも上位の地位に君臨し、涼しい顔で敵対する者を屠る。
悠久の時を生きるように、姿を変えず、ただそこにいる。
あの支部にいる、もう一人の悪魔。
「化け物め……」
軽やかな気持ちは、いつのまにか鬱屈していく。
目をつむり、眉間を揉む。
───だが、それも。
口元にまた笑みが浮かぶ。
白瀬 灯と共に滅びてしまえ。
がくりと車が大きく振動する。
驚きながらも、車窓から外を見ると、道路から外れ路肩を走っていた。
「どこを見ているんですか、ちゃんと運転をしなさい!」
運転席に座るスタッフを怒りに任せて怒鳴る。
しかし、スタッフは背筋を伸ばしたまま微動だにしない。
───手を膝の上に置いたまま。
助手席から伸びる腕が、ハンドルを操作している。
「あぁ、失礼。こちらから運転することに慣れていないもので」
その腕の主が、穏やかに答えた。
後部座席に身を乗り出すように、女が振り返った。
「は、House Keeper……」
口には穏やかな微笑み。
だけどその目は、ギラギラと獲物を見つけた獰猛な獣のように輝いている。
───どうやって。
声にならず口だけがパクパク動く。
「そちらが始めておきながら勝手に退場は、ちょっと虫が良すぎるのでは?」
House Keeperはグイッと乱暴にハンドルを大きく切った。
右に、左に。
大きく揺れる車。
その動きに逆らえず、窓に強く頭をぶつけた。
運転席のスタッフは、グラグラと体を振り子のように揺らし、そして助手席の方へ倒れた。
胸にはシェフナイフが刺さっている。
私に訴えかけるように見開かれた目。
───次はあなたの番だ。
「───ひっ!」
その結末を悟り、House Keeperから少しでも離れようと、隅へ身を寄せる。
不意に、軽い浮遊感。
そして、突然の衝撃と激しい音。
上も下も、右も左も分からなくなるほど、車内でかき混ぜられる。
痛みに顔をしかめながら、瞑った目を開ける。
車の天井は足元にあり、座席は天井にある。
どうやら、車はひっくり返ったようだ。
車内を見るが、息絶えたスタッフがいるだけでHouse Keeperはいない。
割れた車窓から逃げるように外へ出た。
そこは、私の支部が見える道路の上。
あれだけ離れたのに、また私は戻ってきたのか。
呆然と支部を見る私の背に、衝撃が走る。
無様に地面へ縫い付けられる。
首だけをどうにか動かして背後を見ると、片足で私を踏みつけるHouse Keeper。
すっと、支部のあるビルを指さす。
「あそこに、我が主がいる」
冷たい視線を私に向けたまま。
「その主を、お前は殺そうとした」
その手には鋭いシェフナイフが一振り、陽光に反射してギラリと光る。
嫌だ、私はまだ───。
「House Keeper───!」
悲鳴のような声で、名を呼ぶ。
だが、House Keeperの手に握られたそれは、躊躇なく私に振り下ろされた。
「弁解も、釈明も、言葉はいらない。お前の存在が、既に罪なのだ」
口から溢れる血の塊。
息と共に、吐き出される泡。
「お前の命をもって、贖いとしろ」
───あぁ、ここまでか。
薄れる意識で、支部を見る。
───だが、House Keeper。お前の大切な主は、もう。
黒く染まる視界。
だが、口には笑みが浮かぶ。
───どんな顔をするのか、見ることができないのが残念だ。
楽しくてたまらない。
安堵した顔が。
勝ち誇った顔が。
House Keeperの歪んだ顔を想像するだけで。
意識が闇に染まる寸前まで、私は胸の内で笑った。
事務スタッフのトップに刺したシェフナイフの柄から手を離す。
───あぁ、真様。やっと……。
その死を捧げるように、胸に手を当てる。
仇敵を倒した。
それでも、私の心は晴れることなく、どろりとした黒い感情が残っている。
「よかった」
口の中で呟く。
お嬢様に、どす黒い復讐に塗れる私を見られなくて。
お嬢様が、この役目を担わずに済んで。
それだけが、私の心をほんの少し軽くさせた。
支部に向かおうと事務スタッフのトップから離れようとした時、その死に顔が目の端に留まった。
恐怖でもなく。
悔恨でもない。
口元に浮かんだ歪んだ笑み。
その笑みが私の胸を大きくざわめかせる。
無意識のうちに私の足は走り出していた。
嫌な予感が私の中で駆け巡る。
もう支部は目に見えているのに。
そこに至る道が遠く、流れる時間がとてつもなく遅く感じる。
そんな私の焦りを嘲笑うかのように、地の底から響く振動。
グラグラと揺れる支部。
崩れ落ちる瓦礫。
割れた窓ガラスが、鋭い雨となって地面へ降り注ぐ。
「お嬢様ぁ!」
思わず叫ぶ。
聞こえるはずがない。
だけど、叫ばずにはいられなかった。




